バーク『フランス革命の省察』(41)先入見の効用

《いうまでもなく伝統の限定使用にあって現在世代の合理的力量が奮われはする。しかしその合理すらが伝統によって限定されているとみたのはバークの卓見であった。つまり「偏見の擁護」ということである。プレジュディスは先入観であるが、「あらかじめの判断」でもある。いかなる判断もそれに先立つ判断がなければ成立しないことをバークは見抜いたのであった。伝統が仮りに偏見の体系にみえたとしても、それらの偏見は合理的判断のための拠るべき前提なのかもしれない。偏見を疑うことも矯正することも必要であろうが、偏見をそれが偏見であるという理由だけで排斥するのは合理主義の傲慢であり軽率なのである。

 哲学史の最先端にある(M・ハイデッガーからHG・ガダマーに至る)解釈学は、了解のためには先了解がなければならぬと主張し、そして先了解が伝統と深くかかわっていると確認している》(西部邁『思想の英雄たち』(文藝春秋)、p. 30

Prejudice is of ready application in the emergency; it previously engages the mind in a steady course of wisdom and virtue, and does not leave the man hesitating in the moment of decision, skeptical, puzzled, and unresolved. Prejudice renders a man's virtue his habit, and not a series of unconnected acts. Through just prejudice, his duty becomes a part of his nature.

(先入見は、火急の際すみやかに適用できます。前もって、英知と美徳の堅実な道筋に心を従わせ、決断の時に躊躇し、懐疑し、困惑し、未解決のまま人を取り残しません。先入見によって、人の美徳は習慣となり、一連の脈絡のない行為ではなくなります。正しい先入見によって、人の義務は自らの本性の一部となるのです)― cf. 半澤訳、p. 117

 火急の際は、先入見の是非を問う時間がない。もっと良いやり方があるのかもしれないが、取り敢えず、火事は消さなければならない。詰まり、「先入見」は最悪の事態を避ける「安全装置」なのである。

《「偏見」という感情こそは道徳を支えるものであって、「偏見」なしに美徳は存在しえない。そう、バークは指摘する。「偏見」という感情を人間から除去すれば人間は道徳を排除して不道徳化、つまり悖徳(はいとく)に陥ってしまう。このことは、「偏見」という感情を全面排除することを論じたルソーやマルクスが、道徳を全面否定したことでもわかるだろう。王制や既存宗教や貴族制を支える「偏見」を、「裸の理性」において否定し排除したレーニンの革命ロシアが、無道徳国家となった現実も、バークの「偏見」論の正しさを力強く証明している》(中川八洋『正統の憲法 バークの哲学』(中公叢書)、p. 260


 私は、道徳を広義において一種の「先入見」と考えたい。道徳は、広く世間に受け入れられている規範である。が、だからといって必ずしも正しいとは限らない。少なくとも、時代や状況によって揺れ動くものである。したがって、如何なる道徳が「今ここにいる私」にとって必要なのかは、本来その都度吟味されねばならない。が、日常生活においてそんなことをしている余裕はない。だから、道徳なる先入見が参照されるわけである。

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