バーク『フランス革命の省察』(58)馬族フウイヌム
スウィフトは、さらに科学者を揶揄(やゆ)するかのようなことを書く。
《彼らの家の建て方は実にひどく、壁は傾いているし、どの部屋の隅もどれ1つとして直角にはなっていなかった。実用幾何学を軽蔑しているために生じた欠陥であった。彼らは、実用幾何学を下賤(げせん)で低俗なものとして実に馬鹿にしている》(ジョナサン・スウィフト『ガリヴァー旅行記』(岩波文庫)平井正穂訳:第3篇
第2章:p. 226)
自意識が過剰に肥大化してしまって、自分が優秀でないと気が済まない。他方、自分と関係のないことは、どうでもよいのである。
《そういったものを造る時にいろんな指図をするにはするが、それが高邁(こうまい)すぎて職人の頭では理解できない。当然絶えず失敗が繰り返されるというわけである。紙の上で、定規と鉛筆とコンパスを用いてやる作業にかけては、実に巧みであるが、こと日常生活に関する作業や動作となると、これくらい不器用で下手くそで始末におえない連中を、私は未だかつて見たことがない。それに、数学と音楽の問題を除いては、あらゆる問題についてその理解の鈍くて無茶苦茶なことも、これまた私は他に類を見たことがない。
自分の考えをまとめて述べるのが実に不得手な連中で、偶然意見が一致するという、それこそ滅多にないことが起ればともかく、それ以外の場合には、絶えず意見の衝突をきたして激しくいがみ合う始末である。想像力や、空想力や、発明工夫の才能とは全く無縁の徒であり、事実また、そういった観念を表わすいかなる言葉も彼らの言語にはない。要するに、思考と心の全領域が、ただ先に述べた2つの学問の埒内(らちない)に限られているというわけである》(同)
彼らは、典型的な「専門馬鹿」である。
さらに、バークは言及していないが、『ガリヴァー旅行記』第4篇にフウイヌムという馬族が登場する。
《これらの気高いフウイヌムたちは、あらゆる美徳を好むという先天的な性質を生来与えられており、したがって、いやしくも理性的な動物に悪が存在するということは、とうてい考えることも見当もつかないのである。そんなわけで、彼らの最も大切な処世法は、「理性」を涵養(かんよう)せよ、しかして、その命ずるところにひたすら服従せよ、ということである。
彼らの間にあっては、われわれの場合と違って、理性は解決困難な考究の対象とはならない。つまり、われわれは理性の問題を、その両面から、ああでもないこうでもないと言って、もっともらしく議論するが、理性は、ここでは、単刀直入、確乎たる信念として生きているのである。理性が、情念や利害によって汚染されたり曇らされたり退色させられたりしていなければ、当然そうあって然るべきであろう。(同、第4篇
第8章:p. 379)
生得的である「理性」は、彼らにとって無謬(むびゅう)である。当然、彼らが考えたことには誤りがない。
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