バーク『フランス革命の省察』(59)合理主義哲学批判/法の下の平等
「意見」という言葉の意味を、いいかえれば或る問題がいろんな風に論じられうるということを、主人に納得させるのにどれほど困難を味わったか、私は今でも忘れることができない。というのは、「理性」はわれわれが確実に知っている事柄についてのみ、肯定するか否定するすべを教えるものであり、もしこちらがなんらの知識をももち合わせていない事柄については、肯定も否定もできないはずだ、というのが主人の考えであったからである。
そんなわけで、間違った、乃至(ないし)は疑わしい、命題について、論争したり喧嘩したり討諭したり主張したりすること自体、明らかに悪であり、フウイヌムにとっては理解に苦しむ体(てい)のものなのだ。
私が「自然科学」のいろんな理論体系について彼に説明した時も、いつも同じように彼は笑い出したものであった。そして、「理性」をもっていると偉そうなことを言っている者が、他人がたてた臆説を知っているからといって自慢するのはおかしい、況(いわん)やよしんばその知識が確かであっても何の役にもたたない事柄の場合はとくにそうだ、と言うのであった》(ジョナサン・スウィフト『ガリヴァー旅行記』(岩波文庫)平井正穂訳:第4篇 第8章:pp. 379f)
哲学は哲学でも、彼らの哲学は、自分に都合のよい部分だけで構成された「合理主義哲学」である。
To be
honored and even privileged by the laws, opinions, and inveterate usages of our
country, growing out of the prejudice of ages, has nothing to provoke horror
and indignation in any man. Even to be too tenacious of those privileges is not
absolutely a crime. The strong struggle in every individual to preserve
possession of what he has found to belong to him, and to distinguish him, is
one of the securities against injustice and despotism implanted in our nature.
It operates as an instinct to secure property, and to preserve communities in a
settled state. What is there to shock in this?
(古くからの先入見から生まれ育った我国の法、意見、根深い慣習によって名誉を受け、特権をも与えられることは、如何なる人間にとっても恐怖と憤(いきどお)りを引き起こすものではありません。これらの特権に固執し過ぎることでさえ、絶対に犯罪というわけでもありません。自分のものであり、自分を際立たせるものだと認めたものを所有し続けようとする、あらゆる個人の中の奮闘努力は、私達の本性に組み込まれた不正と暴政に対する保障の内の1つです。それは、財産を確保し、安定した状態で共同体を維持するための本能として作用します。このことのどこに衝撃を与えることがあるのでしょうか)―
cf. 半澤訳、p. 174
ここで重要なのは、<古くからの先入見から生まれ育った我国の法、意見、根深い慣習>というものは、今を生きるものにとって万人に公平だということである。生者の中の誰かが恣意(しい)的に判断したものでもなければ、生者の誰かが自分に都合の良い法律を制定したものでもない。今風に言えば、「法の下の平等」ということであり、これほど「平等」な規矩(きく)規則はない。
勿論、今在る法、意見、慣習が絶対的に正しいということはない。時代に応じて修正すべきは修正すべきであろう。が、これをすべて否定し一掃すれば、生者の誰かがこれに代わるものを作成することにならざるを得ず、当然、誰が作成するのかを巡って再び一悶着も二悶着も起こるだろうし、本人がどれほど「公平」なものを作ったと思っても、「不公平」観は禁じ得ないということである。
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