バーク『フランス革命の省察』(63)無宗教という名の宗教

it seems to me that this new establishment is intended only to be temporary, and preparatory to the utter abolition, under any of its forms, of the Christian religion, whenever the minds of men are prepared for this last stroke against it by the accomplishment of the plan for bringing its ministers into universal contempt. They who will not believe that the philosophical fanatics who guide in these matters have long entertained such a design are utterly ignorant of their character and proceedings.

(この新しい教会組織は、暫定的なものとして意図されているだけで、人々の心が、聖職者を全員の軽蔑の的とする計画が達成されることによって、キリスト教に対するこの最後の一撃が準備されたときはいつでも、キリスト教を、いかなる形であれ、完全に廃止するその準備であろうかと私には思われるのです。これらの問題を指導する哲学的狂信者たちが、長い間そのような計画を抱いていたことを信じようとしない人々は、彼らの性格と行動をまったく知らないのです)― cf. 半澤訳、p. 186

 宗教を元凶と考える「哲学的狂信者」こそが元凶である。彼らは、知を愛する哲学者ではなく、悪を憎む哲学者である。彼らの原動力は、弱者の強者に対する憎悪、すなわち、「ルサンチマン」(怨恨)である。

These enthusiasts do not scruple to avow their opinion, that a state can subsist without any religion better than with one, and that they are able to supply the place of any good which may be in it by a project of their own, — namely, by a sort of education they have imagined, founded in a knowledge of the physical wants of men, progressively carried to an enlightened selfinterest, which, when well understood, they tell us, will identify with an interest more enlarged and public. The scheme of this education has been long known. Of late they distinguish it (as they have got an entirely new nomenclature of technical terms) by the name of a Civic Education.

(これらの狂信者は、国家は、宗教があるよりもない方が存続でき、自分たちの計画、すなわち、彼らが想像した一種の教育によって、人間の肉体的欲求の知識に基づき、彼らが言うには、よく理解できれば、より拡大した公共の利益と一致するであろう賢明な自己利益へと徐々に導かれ、国家にあるかもしれない如何なる善の代わりを務めることが出来るという意見を公言して憚(はばから)らないのです。このような教育の計画は、以前から知られていました。最近になって、彼らは(専門用語の命名法をまったく新しくしたので)市民教育という名前でこれを区別しているのです)― cf. 半澤訳、同

 かれらの思考は、現実を離れ、頭の中だけで組み立てられた「妄想」である。

We hear these new teachers continually boasting of their spirit of toleration. That those persons should tolerate all opinions, who think none to be of estimation, is a matter of small merit. Equal neglect is not impartial kindness. The species of benevolence which arises from contempt is no true charity.

There are in England abundance of men who tolerate in the true spirit of toleration. They think the dogmas of religion, though in different degrees, are all of moment, and that amongst them there is, as amongst all things of value, a just ground of preference. They favor, therefore, and they tolerate. They tolerate, not because they despise opinions, but because they respect justice. They would reverently and affectionately protect all religions, because they love and venerate the great principle upon which they all agree, and the great object to which they are all directed.

(このような新米教師たちが、絶えず自らの寛容の精神を自慢していると聞きます。何も評価できないと考える人々が、すべての意見を許容することなど、およそ取るに足らぬ称讃にしか値しません。平等な無視は公平な親切ではありません。軽蔑から生まれる類の博愛心は、真の慈愛などではありません。

イングランドには、真の寛容の精神で許容する人々が大勢います。彼らは、宗教の教義は、程度の差こそあれ、すべて重要であり、それらの中には、すべての価値あるものの中にあるように、優先されるべき正当な理由があると思っています。それゆえ、彼らは支持し、容認するのです。彼らは、意見を軽蔑するからではなく、正義を尊重するから容認するのです。彼らは、すべての宗教が同意する偉大な原理と、すべての宗教が向けられている偉大な目的を愛し崇拝するので、すべての宗教を恭(うやうや)しく、愛情を込めて守るのです)― cf. 半澤訳、p. 189

 彼らは、宗教を否定する。が、この彼らの考えもまた「無宗教」という1つの宗教なのである。

コメント

このブログの人気の投稿

ハイエク『隷属への道』(20) 金融政策 vs. 財政政策

バーク『フランス革命の省察』(33)騎士道精神

オルテガ『大衆の反逆』(10) 疑うことを知らぬ人達