バーク『フランス革命の省察』(65)宗教を批判する「宗教」
《宗教が時効にもとづいているという教説の意味するところはせいぜい、現実には人類の圧倒的大部分の者はその信条を伝聞によって受け入れているということくらいだろうと思われるのだが、ここからバークは、人間が推論を抜きにして信仰する以上彼らの信条を理性によって検証することは間違いだと推論するもののようである》(L・スティーヴン『十八世紀イギリス思想史 下』(筑摩叢書)中野好之訳、p. 106)
スティーヴンは、バークの時効説に批判的である。そして宗教を持ち出すのであるが、私の目には、バークの時効説を批判しているというよりも立場の違いであるように映る。宗教は1つの価値体系である。これを別の価値体系で批判してもただ衝突するだけである。理性によって検証することがさも正しいかのように言うのは我田引水でしかないだろう。それは、唯物論的視点から、自己を正当化するが如く、宗教を否定してみせているだけのことでしかない。
《社会機構の安定性はその国教の活力に依存すると固く信じた彼は、当然のことながら自由思想家たちを侮蔑する。われわれイギリス国民は「宗教が市民社会の基礎でありいっさいの善と愉楽の源泉であることを知っており、さらに結構なことにはこの事実を胸中深く感得しているのだ」と被は述べる。この言明は国教会の熱烈な擁護に繋がるものであり、どうやら彼はこのように有用な団体が世に説く教説についてはその内容の真偽を問うべきではないと考えていたふしもある》(同)
バークが言っているのは、<宗教が市民社会の基礎>だと言うことだけであって、特段宗教を持ち上げているわけではない。宗教は、全面的に否定されるべきものではない。否、宗教を全面的に否定することなど不可能である。たとえ宗教を全面的に否定したとしても、それは無宗教という1つの「宗教」でしかない。
《人間、それは人間の世界であり、国家であり、社会性である。この国家、この社会性が宗教、すなわちひっくり返った世界意識を生み出すのは、それらがひっくり返った世界だからである。宗教はこのひっくり返った世界の一般的な理論であり、その百科的概説書であり、一般向けの形式におけるその論理であり、その精神主義者の名誉に関わる点であり、その熱狂であり、その道徳的な是認であり、その壮麗な補いであり、その一般的な慰安と正当化の根元である。それが人間的な本質の空想的実現であるのは、人間的な本質が本当の現実を何も有していないからである。ゆえに宗教に対する闘争は間接的に、精神的な香りが宗教である先のひっくり返った世界に対する闘争である。
宗教的な惨状は、現実的な惨状の表現に、そして現実的な惨状に対する抗議に存在する。宗教は窮迫した生き物のうめき声であり、それは精神なき状態の精神であるように、無情な世界の心情である。それは国民の阿片である》(カール・マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』:序文)
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