バーク『フランス革命の省察』(66)社会は合理と非合理からなる有機体

《理神論者の没落に欣喜(きんき)しつつ彼は、「万物すべてが論議の対象となる」ような風潮はその時代の栄誉ではなくて恥辱にほかならぬと宣告する》(L・スティーヴン『十八世紀イギリス思想史 下』(筑摩叢書)中野好之訳、p. 106)

※理神論:神の存在を啓示によらず合理的に説明しようとする立場

 デカルトよろしく万物すべてに疑いの目を向け、合理性のないものを捨て去ろうとすることのどこに<栄誉>があるというのか。合理性などというものは、合理主義者の頭の中だけの恣意(しい)的な理屈に過ぎない。世の中には非合理なものがたくさんある。合理的なものは、謂わば「氷山の一角」でしかない。

 現実の世界は、有機体の如く、合理と非合理が綯(な)い交ぜになって成り立っている。社会から非合理なものをすべて排除しようなどとすれば、社会は死滅してしまうであろう。

《長期の時効によって黙許されてきた諸々の言い分をわれわれはあまりにも細かく詮索しがちであったということを、心に深く銘じなければならない。バークは精神的には寛容な人間であるが、彼は宗教的寛容の原理に関してはきわめて明確な限定を設ける。彼は「無神論の根を徹底的に除去するため」には法の威厳の力を借りねばならぬと考え、すべての非国教的会派は完全な寛容の対象となってもよいが、彼らの意を迎えて教義受諾の条件の緩和をはかるべきではないと述べている。

彼はフェザズ・タグァンの請頗に触れながら、「平和よりも真理の方が遥かに大事であるという意見はもっともであるが、しかしわれわれはまだ真理に関しては平和に関してと同様な意見の一致を見ていないのだから、私は真理が明白に確定されえないかぎり平和の側に強く与(くみ)する道を選びたい。平和は博愛というもっとも高い徳目を伴侶として持つものなのだ」と述べた。

解決ずみの問題を不必要に蒸しかえして狂信の徒を再び野放しにするならば平和は乱される。このような場合は時効に対するバークの畏敬が、彼を頑迷な国教徒や犬儒主義者との訝(いぶ)かしい連繋(れんけい)にまで追いこむこととなる。彼は各人の自由な思考の禁圧によって信仰心を強化しようとするのに夢中のあまり、不都合な議論が捲き起こるのを恐れる宗教は一旦積極的な論敵の攻撃を受ければたちまち自壊するという事実を忘却するに至った》(同、pp. 106f

 宗教が世の中のすべてを決めるわけではない。バークの言うように、宗教はあくまでも<市民社会の基礎>でしかない。問われるべきは、この基礎の上にどのような社会を構築するのかということであって、基礎の合理性云々の話であってはならない。基礎を非合理だと言って切り崩していけば、その上にこれまで構築して来た社会が崩壊しかねない。

 社会に問題があるのなら改善すればよい。が、社会の基礎に問題があるなどと言い出せば、それは改革ではなく只の「改悪」となってしまいかねないのである。

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