バーク『フランス革命の省察』(74)中庸と慎慮

Superstition is the religion of feeble minds; and they must be tolerated in an intermixture of it, in some trifling or some enthusiastic shape or other, else you will deprive weak minds of a resource found necessary to the strongest. The body of all true religion consists, to be sure, in obedience to the will of the Sovereign of the world, in a confidence in His declarations, and in imitation of His perfections. The rest is our own. It may be prejudicial to the great end, —it may be auxiliary. Wise men, who, as such, are not admirers, (not admirers at least of the munera terræ), are not violently attached to these things, nor do they violently hate them.

(迷信は、弱い精神の宗教です。そして、その精神は、何か取るに足りない形、あるいは何か熱狂的な形などで、迷信が混合することを容認しなければなりません。さもないと、弱い精神から強い精神に必要とされる資源を奪ってしまうでしょう。確かに、すべての真の宗教の本体は、世界の統治者の意志に従うこと、彼の宣言を確信すること、彼の完全性を模倣することにあります。残りは私達自身のものです。それは偉大な目的を害するかもしれないし、補助するかもしれません。賢者は、賢者然として、崇拝者(少なくとも大地の贈り物を崇拝する者)ではなく、これらのものに強く執着することはありませんし、強く憎むこともありません)― cf. 半澤訳、pp. 199f

 極端に走らないこと、詰まり、「中庸」がバークの基本信条の1つである。

Wisdom is not the most severe corrector of folly. They are the rival follies which mutually wage so unrelenting a war, and which make so cruel a use of their advantages, as they can happen to engage the immoderate vulgar, on the one side or the other, in their quarrels.

(知恵は、最も厳しく愚かさを正すものではありません。それらは、節度を欠いた民衆を、どちらの側に付くにせよ、それらの喧嘩に期せずして巻き込みかねないほど、容赦なき戦いを互いに繰り広げ、残酷にそれらの長所を利用する、張り合っている愚かなもの同士なのです)― cf. 半澤訳、p. 200

 「知恵」は、愚かさを正すこともあれば、助長することもある。そのことを理解せずに「知恵」を振り回すことは危険であるし、「知恵」に振り回されぬよう警戒すべきである。

Prudence would be neuter; but if, in the contention between fond attachment and fierce antipathy concerning things in their nature not made to produce such heats, a prudent man were obliged to make a choice of what errors and excesses of enthusiasm he would condemn or bear, perhaps he would think the superstition which builds to be more tolerable than that which demolishes, —that which adorns a country, than that which deforms it, —that which endows, than that which plunders, —that which disposes to mistaken beneficence, than that which stimulates to real injustice, —that which leads a man to refuse to himself lawful pleasures, than that which snatches from others the scanty subsistence of their self-denial.

Such, I think, is very nearly the state of the question between the ancient founders of monkish superstition and the superstition of the pretended philosophers of the hour.

(慎慮は中立でしょう。しかし、もし慎慮に長(た)けた人が、性質上それほど興奮を生じさせないものに関する妄信的愛情と激烈な反感との争いの中で、どの熱狂の誤りや行き過ぎを非難するか、あるいは我慢するかを選択するよう迫られれば、おそらく彼は、破壊するよりも建設する迷信の方が、国を変形させるよりも装飾する迷信の方が、略奪するよりも寄付する迷信の方が、本当の不正に走らせるよりも間違った恩典を与える迷信の方が、自己犠牲の僅かな生活手段を他者から強奪するものよりも合法的な快楽を拒否するように人を導く迷信の方が、まだ我慢できることと思うでしょう。

古代の創始者の修道士的迷信と、時の哲学者と称される人々の迷信との間の問題は、まさにこういったものなのではないかと思います)― cf. 半澤訳、同

 すべての迷信が悪なのではない。迷信にも、容認されるべき迷信もあれば、容認され得ない迷信もある。そのことは、バークが価値中立的な「慎慮」でもってここに腑(ふ)分けしてみせた通りである。

 <時の哲学者>は、迷信を攻撃する。が、この攻撃も、或る意味1つの「迷信」に他ならない。一般に、迷信は、合理的根拠を欠いていると言われる。が、私に言わせれば、合理主義自体が1つの「迷信」である。だとすれば、迷信に合理性を問うこと自体が合理性を欠くということにはならないのかと疑われるのである。

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