ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(16)遊戯と神聖なるものとの同一化

このプラトーンの遊戯と神聖なるものとの同一化は、神聖なものを遊戯と呼ぶことで冒瀆(ぼうとく)しているのではない。その反対である。彼は遊戯という観念を、精神の最高の境地に引き上げることによって、それを高めている。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 42)

 無論、プラトンは、神聖なるものも所詮(しょせん)「遊び」に過ぎないと言って神聖なるものを貶(けな)しているのではない。神聖なるものも「遊び」の一種であると「遊び」の領域を拡大しているだけである。

われわれはこの本の初めの個所で、遊戯はすべての文化に先行して存在していた、と述べた。またある意味で、それは一切の文化の上に浮かんでいるもの、少なくとも文化から解き放たれたものでもあった。このことには何の変わりもない。初めの考えそのままでよい。

人間は子供のうちは楽しみのために遊び、真面目な人生の面に立っては、休養、レクリエーションのために遊戯する。しかし、その面よりもっと高いところで遊戯することもできるのだ。それが、美と神聖の遊戯である。(同)

 フランス社会学者ロジェ・カイヨワは言う。

《聖なるものの領域は、〔遊びのそれと〕同様に慎重に世俗的生活から隔離されてはいるが、それは聖なるものの恐しい攻撃から世俗的生活を守るためであって、現実と衝突すれば脆弱(ぜいじゃく)な約束ごとである聖なるものがかんたんに壊れるという心配からではない。おそらく、気紛れによっては聖なるものを制御することはできない。あのように恐るべき力を馴致(じゅんち)するには、よほど細心の注意が要る。巧妙な技術を以てして、はじめて、それが可能なのである。経験を積んだ方法、呪縛的な魅力、神自らが権威を保証し教えてくれた呪文が必要である。

これらは神に倣(なら)ってとり行なわれ、言葉として発せられる。それが有効なのは、神に由来しているからなのだ。事実、聖なるものの力を借りるのは、現実の生活を動かしたり、神の恩寵(おんちょう)によって勝利や繁栄の一切の願い事をかなえてもらうためなのである。

聖なるものの力は日常生活を超越している。寺院の外に出、あるいは供犠(くぎ)が終ると、人間は、自由や、より穏やかな気分を回復する。そこでの行為には、恐れもおののきもなく、ある行為がとりかえしのつかぬ結果を惹きおこすといったことは、あまりないのである》(カイヨワ『遊びと人間』(講談社文庫)多田道太郎・塚崎幹夫訳、pp. 294f



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