ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(17)日常生活からの空間的分離

《聖なる活動から世俗の生活へ移る時には、人はほっとした気分になる。それは、世俗の生活での患(わずら)いや逆境から、遊びの雰囲気へ移る際と同じことである。このいずれの場合にあっても、移行によって新たな段階の自由が得られるのだ。

周知のように、自由〔気楽〕と世俗ということは多数の国語において、同じ言葉で表現されている。この意味で、すぐれて自由な活動である遊戯的なものは、純粋の世俗であって、それは内容がなく、不可避の影響を他の面にもたらすことはない。それは、生活にくらべれば、楽しみや気晴らしでしかない。

ところで、生活は逆に聖なるものにくらべれば、あだし事であり、気晴らしなのだ。それゆえ、「聖なるもの――世俗――遊戯」というヒエラルキーを決めれば、ホイジンガ説の構造はバランスを保つはずだ。聖なるものと遊びとは、2つとも実際生活と対立しているという限りでは共通しているが、しかし、それらは生活を軸として対称的な位置を占めている。遊びは、当然生活を恐れる。生活は、一撃にして遊びを打ち砕き、消滅させるからである。反対に、生活は聖なるものの持つ至高の力に対して不安なまま依存している、と一般に思われている。(カイヨワ『遊びと人間』(講談社文庫)多田道太郎・塚崎幹夫訳、pp. 295f

※あだし事(徒し事):無駄な事。つまらない事。

☆ ☆ ☆

 遊戯の形式的特徴の中では、日常生活から空間的に分離されているという点が最も重要だった。1つの閉じられた空間が、現実あるいは観念の中で、日常的な環境から切断され、境界を設けられる。遊戯はこの空間の内部で行なわれる。そこで適用されるのは遊戯規則である。

一方、いかなる神聖な儀事の場合にも、神に奉献された場を標示することが、儀式の最初の、第1の特徴だった。祭祀(さいし)において区画ということが求められるのは、呪術とか法律行為に際してそれが要求されることをも含めて、単に空間的・時間的な隔離だけを要請するということをはるかに超えた問題なのである。奉献式、成年式の慣習を見ると、殆んど全部の場合、執行人たちや新たに成人に加えられる青年に対し、人為的に選別、隔離という状態の中にいることが求められている。

宣誓とか、騎士団、教団への加入とか、書式、秘密結社とかの問題が語られるところ、そこには常に何らかのやり方で、そういう行事に必要な、遊戯における隔離が行なわれている。魔法使、予言者、奉献者は、まず浄らかに祓(はら)われた空間を定め、これを周囲とはっきり画することから事を始めるものだ。秘蹟や密儀も清められた場が前提にある。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 43

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