ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(18)「祀り」と「遊び」

 種々の文化形式が、このように一般にひろく同一性を示していることに対して、たいていその原因を合理的な面に探して回るのが普通である。つまり、区画や隔離がなぜ要求されるのかと言うと、神に捧(ささ)げられた人間は、そうして清められ奉献された状態にある時は、ことのほか外界(がいかい)からの危害に冒(おか)されやすいし、また彼ら自身も周囲に対して非常な危険を及ぼすものである。だから、外とのあいだに有害な影響を与えたり、蒙(こうむ)ったりするのを避けるためにそういう方法がとられるのだ、というふうに説明されている。

この説によると、いまわれわれが問題にしている文化過程のそもそもの発端に、早くも理性的な考え方と功利的な意図とがあったことになる。功利主義的説明、これこそまさにフロベーニウスが戒(いま)しめたものだった。もちろん、この説も、狡猾(こうかつ)な僧侶どもが宗教などというものを考え出したのだ、といった考えに逆戻りするのとはわけが違う。それにしても、その思想の中には、どこか合理主義的な動機を押しつけようとするところが残っている。

しかし、そういう考え方をせずに、遊戯と祭式の本質的、根源的な同一性ということをまず受け容れさえすれば、清められた奉献の場が根本的には遊戯の場であることが承認できる。そして〈何のために〉〈何故〉遊戯をするのか、というような誤った問いなど、そもそも生ずる余地がなくなってしまう。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、pp. 43f

 遊戯と祭式が本質的、根源的に同一性を有すること自体に異論はないが、だからと言って、一足飛びに、「奉献の場」が「遊戯の場」であるとまで言い切ることには違和感が拭えない。「祀(まつ)り」と「遊び」に同一性が見られるとしても、「祀り」と「遊び」は同一のものではない。また、「祀り」が「遊び」に属し、包摂されるわけでもないだろうからである。

遊戯している人は、その全身全霊をそこに捧げる。〈ただ遊んでいるだけなんだ〉という意識は、この時ずっと奥の方に後退している。遊戯と分かちがたく結びついている喜びは緊張に変わるだけではない、こうして昂揚(こうよう)感、感激にも転化する。遊戯の気分の両極をなす感情、それは一方では快活、また他方では恍惚(こうこつ)である。

 遊戯の気分、これはその本来のあり方として不安定なものである。どんな瞬間にでも、遊戯を妨げる外からの煽(あお)りを受けたり、あるいは内部から規則を侵犯されたりなどして、〈日常生活〉がふたたび自分の権利を振り戻そうと要求してくるものだ。それだけではない。さらに遊戯精神が内部から崩れてしまった時とか、陶酔がさめ遊戯に失望が起きたりした時にも、遊戯は妨げられてしまう。(同、p. 45

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