ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(19)閉じた社会

事の本質からいって、祝祭と遊戯の間には、極めて親しい関係が成り立つ。日常生活を閉めだすこととか、必ずそうだとは言えないがだいたい陽気であるといえる催し事の情調――もちろん、祝祭は真面目、厳粛なものでもあり得るわけである――それから時間的、空間的に制限が加えられることとか、厳しい規定性と其の自由の融合、これらの要素はみな遊戯と祝祭に共通する最も主要な特徴である。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 46)

 祝祭と遊戯は、時空間が限られた非日常的な世界という共通性がある。別言すれば、「閉じられた世界」(closed world)に属するということである。

 フランスの哲学者アンリ=ルイ・ベルクソンは言う。

《もし自然的なものが、幾世紀もの文明の間に、それの上に累積した後得的習慣によって圧(お)しつぶされていたとすれば、我々は、責務の分析に当たって、この自然的なものをとるに足らぬものと見なすことができるだろう。しかし、自然的なものは、最も文明化した社会のなかでも、少しも破損されずに、極めて生き生きと存続している。これこれの社会的責務を明らかにするためにではなくて、私が責務の全体と呼んだものを説明するためには、この自然的なものを思いおこさねばならぬ。しかも、我々の文明社会は、自然が我々を直接に運命づけていた社会とどんなに異なっているにしても、やはりそうした社会と根本的な類似を呈示している。

 実際、我々の文明社会もまた閉じた社会(sociétés closes)である。我々が本能によって導かれていった小集団、社会環境から我々がそこに寄託(きたく)されているのを発見する一切の物質的・精神的獲得物が消失するような場合には、その同じ本能が多分今日でも再建するに至るであろうような小集団――そうした小集団に比べれば、我々の文明社会は、いかにも広大ではあるが、それにしてもやはり、どんな瞬間にも若干数の個人を包含し、その他の個人を排除することを本質としている》(ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』(岩波文庫)平山高次訳、p. 37

 社会が発達するにつれて、「閉じられた社会」は開かれる。が、「閉じられた社会」が消滅するわけではない。日頃「開かれた社会」の影に隠れてしまっているけれども、「閉じられた社会」は隠然として存在し続ける。閉鎖的時空間、すなわち、「閉じられた社会」の中で催されるという意味で、「祝祭」と「遊戯」には、少なからず共通性があるとは言えるだろう。

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