ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(20)ベルクソンの妄想
《閉じた社会とは、他の人々に対しては無関心なその成員たちが、つねに攻撃または防衛に備えて、つまり、戦闘態勢をとらざるを得ないようになって互いに支え合っているような社会のことである。人間社会は、自然の手から離れたてのときは、そのような社会である。蟻がその巣のために作られているのと同様に、人間はこうした社会のために作られていた。(ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』(岩波文庫)平山高次訳、pp. 327f)
ベルクソンは、コスモポリタニズム(世界主義)を下敷きにして、「閉じた社会」と「開いた社会」を対比し論じているように私には思われる。例えば、国家は「閉じた社会」の象徴である。国家同士が権力闘争を行う中で、衝突することは不可避だと思われる。したがって、国家は他国の攻撃に備えることが必要となる。
《自然の手から離れたばかりの社会の体制はどのようなものだろうか。事実としては人類が分散し孤立した家族的集団から始まった、ということはあり得る。しかし、そうした集団は萌芽的な社会に過ぎず、もし博物学者がただ萌芽しか研究しないならば、彼は、種の習性に関しては、何ら学ぶところがないだろうのと同じく、哲学者は社会生活の本質的傾向をそうした集団のなかに探究すべきではない。社会は、それが完全である時に、すなわち、自衛の能力を持っている時に、従って、たとえどんなに小さくても戦争のために組織されている時に、取りあげられねばならない》(同、p. 341)
が、世の中から国家というものがなくなり、世界社会という「開いた社会」になれば、衝突を回避することが出来るというのは、進歩史観的「妄想」だろう。
《それでは、こうした正確な意味では、社会の自然的な体制はどのようなものだろうか。ギリシャ語を何か野蛮な状態に適用してもそれを冒瀆(ぼうとく)することにはならないなら、社会の自然的体制は君主政的(monarchique)、または寡頭政(かとうせい)的(oligarchique)であり、恐らく同時に両者である、と言ってもよい。この2つの体制は原初的状態においては混一している――すなわち、1人の首長が必要である、そして、首長からその威光のなにものかを借りるか、あるいは首長にその威光を与えるかする、というよりむしろ、首長と共に何らかの超自然的力からそうした威光を享(う)ける、特権者たちのいないような共同社会は存在しない。一方では命令が絶対的であり、他方では服従が絶対的である。我々が何度も言ったように、人間社会と膜翅類(まくしるい)の社会は生物学的進化の2つの主要線の終極点を占めている》(同)
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