ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(21)交わらぬベルグソンの社会哲学論
《類推を濫用してはならないが、しかし、我々は次の点に注目すべきである――すなわち、人間社会が動物進化の2つの主要線の一方の末端に位しているのと同じように、膜翅類(まくしるい)の共同社会は他の一線の末端に位しており、この意味で、この2つの社会は対をなしている。
もちろん、人間社会はさまざまに変化するのに反して、膜翅類の共同社会は型にはめられている。前者は知性に従い、後者は本能に従う。しかし、自然は、我々を知性的に作ったというまさにそのために、社会組織の型をある点までは自由に選択するのを我々に許したにしても、やはり社会生活を営むように我々を定めた。
魂に対して、重力と物体の関係と同じような関係を保つ一定方向のある力が、個人的意志を同一方向に向かわせて、集団の凝集を確保する。道徳的責務はこのようなカである。我々が明らかにしたように、道徳的責務は開く社会においては拡大し得るが、元来それは閉じた社会のために作られていた。さらに我々は、閉じた社会は、想話機能から生まれ出た宗教によるほかは、生存することも、知性の分解作用に抵抗することも、不可欠な信頼を保持してそれをその成員各自に与えることもできないのは、どうしてであるかの理由も明らかにした。閉じた社会は、我々が静的と呼んだこうした宗教と一種の圧力にほかならないこうした責務によって、構成されている》(ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』(岩波文庫)平山高次訳、pp. 327f)
ここまで長々とベルクソンを引用したのは、私の言う「閉じられた世界」について、何らかの示唆(しさ)が得られるのではないかと期待したからである。が、残念ながら、ベルクソンの「閉じた社会」は、ホイジンガの「祝祭」「遊戯」と殆ど交わらないということが分かった。ベルクソンの「閉じた社会」は優れて社会哲学的なものであり、私が主張する「閉じられた世界」は文化的なものであるから、当然と言えば当然であった。
この聖なる遊戯の世界には、子供と詩人が未開人と共に棲んでいる。現代人もその美的感受性によって、幾らかはこの世界に近づくことがあった。われわれはここで、今日仮面が骨董(こっとう)としてもてはやされている流行のことを考える。現代の異国風なものに対する耽溺(たんでき)ぶりは、時にやや病的なところがあるかも知れないが、それでも、トルコ人、インディアン族、シナ人が羽振りをきかせていた18世紀の流行よりも、さらに深みのある精神的内容と、はるかに高い文化的価値は持っているのだ。現代人は、疑いもなく遠く隔たっているもの、奇異なものを理解するのに、非常に秀れた能力を具(そな)えている。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 53)
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