ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(23)遊戯の抽象化
ある文化は他の文化に先んじて、いちはやく遊戯という一般的観念をより完全な形で抽象してしまった。その結果として、高度に発達した言語は、さまざまな遊戯形式を表わすのに、全く違った幾つかの言葉を持つようになっている。そして、この用語の多元性ということが、あらゆる形式の遊戯をただ1つの概念語によって集約するのを妨げる、という結果を生んでいる。
ところで、いわゆる原始言語の中のあるものが、一般的な類の中に含まれる種に対しては、それを表現する幾つかの単語を持っているのに、その類全体をさしていう言葉は全く持っていない、という周知の事実がある。例えば、カマスとかウナギを表わす語はあっても、魚という意味の言葉がないというごとく。いま述べた遊戯という言葉の場合も、大きな立場から見るならば、こういう事実と比較することができよう。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、pp. 58f)
さまざまの徴候が証明していることだが、遊戯の機能そのものは根源的なものと言わざるを得なかったのに対して、遊戯現象を抽象化するという行為は、多くの文化の中で、ただ従属的な結果として行なわれたにすぎなかった。この点に関して、私に非常に意味深く思われることがある。すなわち、私の知っている神話には、どれ1つ、遊戯という観念を神格とか精霊とかの姿で表現しているものがない。ところが反対に、神が遊んでいる姿として表現されることはしばしば見いだされる、という事実である。印欧語には、遊戯を表わす共通語が欠けているが、これは一般的な遊戯概念が後に成立したことを示すものである。ゲルマン諸言語でさえ、遊戯の呼び方は全く分裂していて、統一がない。(同)
われわれが〈遊戯する〉という観念を用いる時に生ずる、もう1つ別の重要な問題がある。ドイツ語のspielenでも、フランス語のjouer、英語のplay、オランダ語のspelenでもそうである。それは、われわれが一般的にひろくある活動を言い表わすのに、この〈遊戯する〉という動詞を用いた場合、とかくいつでも起こりがちなことなのだが、遊戯の概念を明らかに貶(おとし)めて使っているということだ。
つまり、狭い意味での本当の遊戯性がそこに見られるかと言うと、それはただ遊戯の多種多様な属性のどれか1つを帯びているだけのものになっている。例えば、ある種の軽やかさ、緊張、結果如何の不確定性、秩序正しい交代、変化、自由な選択というような性質のうちの、どれか1つだけを遊戯と共有しているにすぎないような概念に弱められている、ということである。(同、p. 74)
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