ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(24)「遊び」の概念

 人間の心には、全体としてみて、どうも音楽を遊戯の領域に引き入れたい気特があることは、全く明白である。音楽するということは、最初から、本当の意味での遊戯が持っているすべての形式的特徴を帯びた行為なのである。つまり、この行為は限られた場の中で行なわれる。これは繰り返すことができるし、また秩序、リズム、規則正しい変化から成り立っていて、聴き手も演奏者も、ひとしく〈日常界〉から晴れやかに澄んだ感情の世界へ連れ出していく。もの悲しい音楽さえも、悦楽と昂揚(こうよう)を生み出すのだ。

一切の音楽を遊戯という項(こう)の下に包含させたとすれば、それこそまさに正鵠(せいこく)を得たものであり、全く申し分ないことである、といえる。ただ、遊戯するという言葉は、音楽の中でも歌をうたうことに対しては普通用いられず、そういう用法はただ2、3の言葉の中でしか見られないように思われる。この点を考えるならば、遊戯と楽器操作の技巧とを結びつける契機は、すばやい、秩序正しい動きというイメージの中に求められるということが、いよいよ確実になるようである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、pp. 81f

 英語には、play the pianoplay a roleplay tennisといった連語(collocation)がある。日本語では、「ピアノを弾く」、「役を演じる」、「テニスをする」となって「遊び」という言葉は出て来ない。また、play the pianoとは言っても、*play a songとは言わないことから、musicが必ずしも「playの世界」に属するというわけではない。さらに言えば、playという名詞には「遊び」以外に「劇」という意味もある。では、playとは何なのか。残念ながら私には今、その答えはない。

 言語によって「遊び」の概念は異なる。したがって、ホイジンガは、ギリシア語、サンスクリット語、シナ語、アメリカン・インディアン語、日本語、セム語、ロマン語、ゲルマン語において、それぞれ「遊び」に当たる言葉を考察しているのであるが、これについては私の能力を越えるので割愛する。

 ある言葉の概念としての価値は、その言葉の反対の意味を表わした言葉によっても規定されるものである。われわれにとって、遊戯に対立する言葉といえば真面目である。より特殊な意味としてならば仕事もそうである。また逆に真面目の反対は冗談、ふざけであると言うこともできる。しかし遊戯―真面目というこの相互補足的な対立が、世界の至るところで、ゲルマン諸言語のように2つの基本語で余すところなく表現されつくしているわけではない。(同、p. 84

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