ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(25)遊戯-真面目の対立

真面目を表わすさまざまの言い方は、ギリシア語でもゲルマン諸言語でも、またその他のどの言葉の場合でも、ただ遊戯という一般的概念に対して、〈遊戯ではないもの〉という消極的な概念を刻印しようとして、言語が副次的にやってみた試みにすぎない…そうして試みているうちに、人々はこの〈遊戯ではないもの〉という概念の表現を、〈熱中〉〈努力〉〈骨折り〉といった領域の中に見つけ出した。しかし、反対の側からみると、それら〈熱中〉〈努力〉という概念そのものは、遊戯ともよく結びつくことができる。

それはとにかく、こうして〈真面目〉を言い表わす言葉が出現したということは、人々が遊戯という概念の複合体を、独立した一般的範疇として意識するようになったことを意味している。だからこそ、遊戯概念を非常に広範囲に、明確な形で掴んだ、他ならぬゲルマン諸言語が、その反対語をも、まことに印象的な言葉で表わすようになったという結果が生まれた。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 85

 言語学的な疑問は別として、遊戯-真面目の対立をもう少し詳しく観察すると、この2つの語が決して等価ではないことが分かる。遊戯は正〈ポジティブ〉であるが、真面目は負〈ネガティブ〉である。真面目の意味内容は遊戯の否定であると規定できるし、実際それに尽きている。

〈真面目〉とは単に〈遊戯ではないもの〉であって、それ以外のものではない。これに反して、遊戯の意味内容は、決して〈真面目ではないもの〉とは定義できないし、それに尽きるものでもない。つまり、遊戯というのは何か独自の、固有のものなのだ。遊戯という概念そのものが、真面目よりも上の序列に位置している。真面目は遊戯を閉め出そうとするのに、遊戯は真面目をも内包したところでいっこう差支えないからである。(同、pp. 85f

 本来、「真面目」の対義語は「不真面目」でしかない。一方、「遊び」は「集合名詞」であり、対義語が何かを考えること自体が馬鹿げている。

 前章の終りで〈文化の遊戯要素〉という表現を用いた時に考えていたのは、人間文化の多様な生活行為の中には、遊戯するという行為のために1つの重要な席がとってある、という意味のことではなかった。また、もともと遊戯であったものが、やがて遊戯とはいえないものに変わってゆき、そこで初めて文化と呼ぶことができるようになった、というふうな発展過程によって文化が生まれて来たのだ、という意味でもなかった。私の意はその反対だった。(同、p. 89

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