ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(26)遊びと文化

 生活上の必要を直接満たすことを目ざした行動――例えば狩猟――でも、原始社会の中では好んで遊戯形式をとっていた。原始人の共同体の生活に、動物よりも価値の高い、単なる生物的なものを超えた特性を保たせていたもの、それがさまざまの形態の遊戯である。この遊戯の中で、共同体は生命と世界に対する彼らの解釈を表現した。

といっても、それは遊戯が文化にいきなり転化したとか、文化に置換された、というふうに理解してはならない。むしろ、文化はその黎明(れいめい)のころの根源的な相の中では、何か遊戯的なものを固有の特質として保っていた、いや、文化は遊戯の形式と雰囲気の中で営まれていた、ということなのだ。この文化と遊戯が重なり合った複合統一体の中では、遊戯の方が根本的な原初にあったもの、客観的に認識できるものであり、具体的にはっきり規定される事実であるのに対して、文化とは、ただわれわれの歴史的判断が、この与えられたものに対して名づけた名称でしかないのである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、pp. 89f

 「遊び」とは、只一回こっきりでも遊びだし、独りでやっても遊びである。一方、「遊び」が「文化」と称されるには、先ずその「遊び」を共有する集団が必要である。そして、その集団の中で、その「遊び」が繰り返され、それが構成員による評価が定着することで「文化」となる。

 文化が進歩発展していくにつれ、われわれが遊戯と遊戯ではないものとの間にもともと存在していたと仮定しておいた根源的な関係も、変わらないではない。たいてい遊戯要素は少しずつ後退してゆき、その大部分は宗教儀礼的な領域に吸収されてしまう。またそれは知識として、詩文として、法律生活や各種の形の国家生活として結晶する。ここまでくると、文化現象の中の遊戯的なものは、全く残すところなく背景に隠れてしまうのが一般である。だがどんな時代でも、いや、たとえ高度の発展を遂げた文化形式の中でさえも、どうかしたはずみに遊戯衝動は力いっぱい動きだし、個人や大衆を駆りたてて、壮大な遊戯の陶酔に引きずりこむことがある。(同、p. 90

 果たして、宗教儀礼の大元(おおもと)が「遊び」と断定してよいのかどうかは議論の分かれるところかもしれない。が、仮にそうだとして、「遊び」が発展し、それが宗教儀礼として定式化するにつれて、「遊び」の表徴(ひょうちょう)が消えていく。それは、定式化されることで行為の自由度が奪われるからではないかと思われるのである。

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