ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(27)遊戯の本質
文化と遊戯の関連を見つけ出そうとすれば、特に社会的遊戯のかなり高級な形式のものの中に、それがあるらしいことは明らかであろう。そういう社会的遊戯が成立するのは、ある集団、またはある共同社会の秩序整然とした活動の中とか、2つの対立し合う集団の間とかである。一個人が、自分ひとりのためにする遊戯が文化を実らせる力は、ただ限られた程度のものでしかない。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 90)
すでに示しておいたことだが、遊戯の基礎因子は、個人的遊戯の場合にも団体的遊戯の場合にも、闘うこと、演技すること、見せびらかすこと、挑みかかること、誇示すること、それを本当に〈しているかのように〉佯(いつわ)ることなどである。しかし、遊戯行為に制限を加える規則の存在をも含めて、これらの行為はすべて、動物の生活の中にすでに見いだされるものだ。このことも、前に示唆しておいた通りである。
系統発生学的にみれば、人類とは遠く隔たっている鳥類がかえって、それらの行為を人類と多く共通して示していることは、それだけにむしろ注目に値しよう。黒雷鳥は踊りを演じてみせるし、鶴は翔(か)け比(くら)べをやる。ニューギニアの極楽鳥やその他の鳥は、その巣を飾り立てるし、蹄禽類はその旋律を響かせる。こういうふうに、競争とか誇示ということは、慰みごと、楽しみとして文化の中から発達してくるのではない。むしろ、文化に先んじているのである。(同、pp. 90f)
ほかのどんな遊戯もそうなのだが、競技もやはりある程度までは、目的を欠いたもの、と言わざるをえない。つまり、それはそれ自体の中で始まり、かつ終る1つの完結体であり、その結果いかんは、そのグループにとって必要やむをえないものである生活過程とは何らかかわりがない。(同、p. 94)
要するにこれは、〈何かやっている〉ということなのである。まことにこの言い方の中には、遊戯の本質が最も簡潔に言い表わされている。しかし、この〈何か〉は遊戯行為の物質的帰結ではない。例えば、ゴルフ・ボールがホール・イン・ワンした、ということでなくて、遊戯が成功した、あるいはうまくいったという観念的事実である。この〈成功〉が、遊戯者に対して長短の差はあっても、暫(しばら)くの間は持続する満足をもたらすのである。(同、p. 95)
<遊戯の本質>は、「遊んだ」ことに対する満足感であって、その「遊び」において良い結果が残せたかどうかは別問題だということである。
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