ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(28)闘争本能
勝つとはどういうことなのか。何が勝たれるのか。――勝つということは、(遊戯の終りにあたって、自分が優越者であることを証明してみせること)である。ところが、実際問題としては、こうしてはっきり示された優越性の効力が押し広げられて、遊戯で勝った人が世上全般にわたって秀れているというふうに誇張される傾向がままあるものだ。そうなると、これは何か、遊戯そのもので勝った以上に勝ったということになる。すなわち、勝者は尊敬を得、名誉を帯びるのである。そしていつもこの名誉と尊敬は、すぐさま勝者の所属しているグループ、関係者の全体に及ぼされてゆく。この点にも、遊戯のまた別の、まことに重要な特性がある。遊戯で獲ちとった〔→勝ち取った?〕成功は、すぐに個人から集団へ移され、しかも、それが盛んに行なわれるのである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 96)
非日常における「遊び」での勝敗は、本来、非日常におけるものであり、「遊び」が終了すれば、それで消えてなくなるものであるはずである。が、実際は、勝敗が日常世界にまで影響を及ぼすことが少なくない。勝者は名誉を獲得し、世間から尊敬の眼差しで見られる。更にそれは、関係する人々や集団へと波紋を広げて行くのである。
競技本能とはまず第1に、力に対する渇望とか、支配しようとする意志とかをいうのではない、ということだ。根源的なのは、他人よりも擢(ぬき)んでたいという欲望であり、第一人者になりたい、第一人者として尊敬を受けたい、という願望なのである。勝利の結果として個人、またはグループの力が拡大するとかしないとかは、第2に生ずる問題にすぎない。中心問題は〈勝った〉というそのことである。(同)
「競技本能」と言うよりも「闘争本能」と言った方が分かり易いかもしれない。闘いに勝たねば生き残れないという太古の峻厳(しゅんげん)な環境がDNAに刻まれてきたのである。勝つこと、それは、人間に課せられた「至上命令」なのである。
闘争や遊戯は、何かあるものを〈求めて〉行なわれる。そして、われわれが閥争し、遊戯する目的の最初にあり、かつ最後に来るのが勝つということである。しかしこの勝利には、それを楽しむためのありとあらゆる方法が結びつくのである。例えば、まず勝利の華々しい誇示とか、仲間から喝采や覚語の言葉で祝福される凱旋(がいせん)とか。勝利の持続的な結果として生まれ、後まで残るのが名誉、声望、特権である。ところが、早くも遊戯の段取りをする時に、単なる名誉以上のあるものが、勝利と結びつけられるような取り決めをするのが通例になっている。つまり、遊戯には賭けということがあるのだ。(同、p. 97)
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