ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(29)仕事と遊戯の対立

〈値段〉(price)と〈賞、称讃〉(prize, praise)の間には、いわば真面目と遊戯の間の対立がある、といってもよい。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 98)

 が、ホイジンガ自身が言っているように、真面目と遊戯を対立させるのは疑問である。ホイジンガは、別のところでこれらの言葉を詳説している。

ラテン語の〈プレティウム〉pretiumは、価値、金、報酬などの意味だが、語原的には、はじめものを交換する、価を計る、という意味領域にあらわれ、〈…に対していくら〉という対応関係を前提とした言葉であった。中世には〈市場価値〉pretium justumなどという言い方もあったが、その一方、この言葉は遊戯の領域にも移して用いられた。

価値がある、尊敬に値するというところから、それは賞、讃美、名誉をも意味することができるからである。英語のpriceprizepraise、ドイツ語のPreis、オランダ語のprijs、これらはいずれもそれにさかのぼる言葉だが、それはいくつかの違った意味方向に発展していった。

英語の例でいうと、〈価格〉priceは殆んどもとの経済領域に止まっているのに対し、〈賞〉prizeは遊戯や競技の世界に移動している。そして〈賞讃〉は、専らラテン語〈称讃、讃辞〉lausに対応する意味に限られた言葉になっている、というふうである。

 とにかくしかし、価値、賞、勝利、利得、儲け、報酬などの言葉の意味範囲を、意味論的に純粋に、明確に弁別することは殆んど不可能である。ただし、遊戯領域の全く外にあるのが報酬である。それは奉仕を果たし、労働を行なったことの正当な報いということだからだ。この報酬を求めてすること、それは仕事であって、遊戯ではない。(同、pp. 97f

 仕事と遊戯の対立は、

  All work and no play makes Jack a dull boy. (よく遊び、よく学べ)

などという諺からも分かる。鍵となるのは、「報酬」(price)である。(注:priceは「価格」ではなく「報酬」と訳出すべきだろう)

 「報酬」の有る無しが、仕事と遊戯の対立となる。

情熱や冒険の要素、勝利や利益への期待の要素は、遊戯にも経済的事業にも必ず伴っている。純粋な所有欲の持主、守銭奴というものは、商取引には手を出さないし、遊戯もしないものだ。冒険、まだはっきり分からない勝利への期待、成行きの不確かさ、そして緊張が、遊戯する心の本質をなしている。この緊張が遊戯の重要性と価値に対する意識を特長づけるのだが、こうして緊張が高まってくると、それは遊戯者に、いまやっているこれは遊戯なのだ、ということを忘れさせるのである。(同、pp. 98f

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