ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(30)勝利至上主義

どんな競技でも、単に何かあるものを〈求めて〉行なわれるだけでなく、ある事柄〈について〉、ある手段〈によって〉、あるものと〈対抗して〉行なわれている。人々は力や技、知識や富について競い、金離れのよさとか、幸福の程度について争い、さらに家柄や子孫の数についても〈一番〉になろうとして競争する。

肉体の力や武器によって、知恵や握り拳によって争う。浪費ぶりを見せびらかすことによって、自分の自慢や他人の悪口で大言壮語することによって、賽筒を振ることによって競い合う。遂には互いに対抗し、張り合って悪知恵や欺瞞によって相手に勝とうとする。

ところでわれわれ現代の感情からすれば、悪知恵やごまかしを用いるならば、競技の遊戯的な部分は故意に破壊され、遊戯は遊戯でないものになってしまうではないかと感じられる。遊戯の精髄は、何といっても規則を守るということにあるのだから。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 99

 「遊び」が競技化し、「遊ぶ」ことよりも「勝つ」ことが優先されることになってしまえば、それは最早「遊び」ではなくなってしまう。「遊び」には独自の「決まり」がある。が、「勝つ」ことが至上命令となれば、この「決まり」はあっさりと反故(ほご)にされてしまうに違いないのである。

 しかし、古代文化というものは、当時の民衆の感情もそうなのだが、われわれの道徳的判断とは少しも合致しないのだ。兎と針鼠(ハリネズミ)の寓話では、主人公の役は欺(あざむ)いて勝った方が占めている。神話の英雄たちの多くは、瞞着(まんちゃく)をしたり、外からの助けを借りて勝っている。(同)

 戦いに勝った方が生き残り、勝者が歴史を作る。善悪の問題よりも、勝敗の方が優先されるのが現実だということである。だから、子供が読む寓話にも勝つことの大事さが扱われ、欧米人の魂の源たる神話においても、勝者の物語が紡(つむ)がれるのである。

 これらすべての場合、相手の裏をかく、欺瞞(ぎまん)ということそれ自体が改めて競争の主題となり、いわば1つの遊戯の形をとっているのである。すでに述べたように、この欺瞞の遊戯者は〈遊戯破り〉ではない。彼は遊戯規則をちゃんと守ってやっているかのような振りをしながら、そのごまかしを取り押えられるまで、みなと一緒に遊戯しつづけている。(同、p. 100)

 が、果たして「欺瞞」は<遊戯破り>ではないのだろうか。無論、相手を欺(あざむ)きながら「遊び」を楽しむことは可能である。さらに言えば、互いに欺き合うような「遊び」があってもよい。問題は、勝つことが最優先にされてしまうことであり、勝つことだけにしか興味関心がなくなってしまうことである。詰まり、このような「勝利至上主義」に陥った時点で、それは「遊び」ではなくなるのではないだろうか。

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