ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(31)生活にとって主か従か
世に行なわれている表現の中で、直訳的にいえば(ルーレット板で賭博を遊戯する)とか(株式取引所で遊戯する)と訳されるようなものがある。遊戯と真面目の境界の曖昧さを、これほど強く言い表わしている例は他にない。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 100)
実際問題として、真面目に「遊ぶ」ことは可能である。そうだとすれば、遊戯の対義語が真面目だと言うことは出来ないに違いない。詰まり、遊戯-真面目を対比させて考察するのは大いに誤解を招くということである。したがって、これ以降は、「遊戯か遊戯でないか」で考えることにしたいと思う。
さて、冒頭の「賭博」と「投機」の例が、「遊戯」に当たるかどうかの基準は、極めて曖昧であることは確かであろう。
ところで前者、ルーレット板の賭博師は、彼のしていることが遊戯であるとすぐ認めるであろうが、第2の相場師ではそうはゆくまい。値上り、値下りという不安定な先行きを見込んでの売り買いは、〈職業生活〉の一部であり、社会の経済的機能の一部と見なければならない。しかし、今言ったどちらの場合にも決定的なのは、利益、儲けを得ようとする努力である。ただ一般に、前者では運という純粋な偶然性が、非常に大きいとはいえないまでも、十分にありうる。実際、そこには勝つための〈システム〉があるのだ。これに対して後の場合では、相場師は、おれは市場の今後の趨勢を見抜くことができるのだ、という何か幻想めいたものを自分で創りあげている。とにかく、両者の心構えの差は、きわめて僅(わず)かなものである。(同)
一般的に、「賭博」は、主従関係ということで言うならば、生活にとって「従」であろうと思われるが、「投機」は「主」であることも「従」であることも有り得るので、「遊び」かどうかの線引きは難しいわけである。が、いずれにせよ、生活にとって、それが「従」でなければ、「遊び」と言えないのではなかろうか。
注目に値するのは、いずれ希望は充たされるだろうと見込みをつけて行なわれる、この2種類の商取引、協定は、直接に賭けごとから発生して来たものであることだ。そこで、ことの関連からいって、この場合、根源的なものは遊戯なのか、それとも真剣な利害関係の方なのか、という点が問題になってくる。(同、p. 101)
根源的かどうか、あるいは、真剣かどうかということよりも、日常的なものかどうかの方が私には重要だと思われる。
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