ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(32)優勝劣敗

闘いに勝つことこそが、物事の成行きに影響するのだ。いかなる勝利も、勝利者に悪に対する善の力の凱歌(がいか)を与え、それと共に勝利を獲ちとった集団の幸福を現実化させてやる、つまりそれを本当に実現させるのである。だから、力技、技能、才知などによって結果が決定される遊戯と同じように、純粋な賭けごと、働きを意味し、またその力を規定しているのだ。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 105)

 が、優勝劣敗という考え方に憑(と)りつかれてしまうことで、「遊び」の世界は変容を来(きた)すに違いない。

ポトラッチと呼ばれているもの、及びそれに類似した総ての行事は、相手に勝つため、優越するために催される、名声や声望を得るために行なわれる、ということである。また言うまでもないことだが、復讐のためにそれが行なわれる場合もある。祭儀の主催者がただ1人だけの時でさえ、常に2つのグループが対立し、しかもそれが、同時に敵愾(てきがい)心と共同の精神の2つによって結びつけられる。

この相反併存的(アンビバレント)な態度を理解するためには、われわれはポトラッチの本当の意味は、前に言ったように、この行事で勝利者になることである、とよく認識しなければならない。両派は、富とか支配のために争うのではない。ただ自己の優位を誇る喜びのために――一言でいえば、栄光のために争うのだ。(同、p. 110

 が、勝利者になることが目的となった時点で、それは最早「遊び」ではなくなってしまっている。

 ポトラッチと呼ぶことのできる複合体すべての中で根源的なものは、私には闘技的本能だと思われる。共同体の遊戯、これが初めにあったのだ。人間の集合体、または個人としての人間が、それを少しずつ高い段階へと押し上げていったのである。こうしてそれは真面目な、運命的な遊戯となり、時には血腥(ちなまぐさ)い遊戯、神聖な遊戯ともなる。しかし、遊戯であるというそのこと自体には何の変わりもない。それら総てが遊戯であるといってよいことを、われわれは十分に見てきたつもりである。(同、p. 112

 果たしてそうだろうか。それが「一時的」な「非日常世界」である限りにおいて「遊び」と言って良いだろう。が、勝利至上主義は、「遊び」の勝敗がついた時点で終了せず、勝敗がその後の世界に及ぼす影響を目的としているという点で、一時的な非日常性は失われてしまっている。詰まり、最早「遊び」と言えるようなものではなくなってしまっているだろうということである。

コメント

このブログの人気の投稿

オークショット『政治における合理主義』(4) 合理という小さな世界

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(102)遊びと科学

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(86)エビメテウス、プロメテウスの神話 その2