ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(33)日常世界の第一人者

 ローマ時代には、公共遊戯 ludi publici というものが催されていたが、その度はずれな奢侈(しゃし)贅沢(ぜいたく)ぶりは、史家ティトゥス・リウィウスをして、狂気じみた競争への堕落である、と慨嘆させるほどのものであった。クレオバトラーは、彼女の真珠を酢に溶かしてみせることによって、マルクス・アントーニウスに対して勝ち誇った。ブルゴーニュ公国のフィリップ善良公(ぜんりょうこう)は、その宮廷貴族たちによって開かれた連日の大饗宴(だいきょうえん)に冠(かん)するものとして、リールで(雉子(きじ)の誓約)祭を催した。またそうかと思うと、大学生たちは、恒例の記念祭の時などに、ガラス器具の儀式的粉砕をやってのけたりする。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 113)

 これらはみな、敢えて言えば、まことに明快なポトラッチ本能の表現であるといえよう。しかし私の見解としては、ポトラッチそのものを、人類の根本的な欲求のうちの最も高度に発達した、最も明確な形式のものと見なした方が、より正しく、また簡潔ではないかと思う。私はこれを、名誉、声望を求める遊戯と呼びたい。

ポトラッチのような術語は、一たび科学的用語の中に受け入れられてしまうと、たちまち符牒(ふちょう)にされやすく、人々はこの言葉を使いさえすれば、もうそれである現象の説明がついたように思って論議をやめてしまいがちな、そういう言葉の1つなのである。(同、p. 113

 子供の生活から最高の文化活動に至るまですべてを通じて、1つの願望が働いている。それは自分の優秀さを認められて、人から褒(ほ)められたい、名誉を享(う)けたいという願望であり、これが個人や個人の属する集団が自己を完成しようとするときに働く最も強い動機の1つになっている。

人々が互いに相手を褒め合うのは、自分自身を褒めることである。人々は自分の美徳を讃えられて、名誉を享けようと求めている。何事についても、自分はそれを首尾よくやってのけたのだ、という満足感を欲している。何かをうまく成し遂げたということは、他人よりも立派にやってみせた、という気持を意味する。第一人者になるためには、自分が第一人者であることを、外に現わして見せなければならない。第一人者であると証明しなければならない。この優越性の証明を与えるのに役立つのが競争である。このことは、原始社会について特にあてはまる。(同、p. 115

 競争自体は「遊び」であるのかもしれない。が、競争に勝利し、<第一人者>であることを世間に認めさせるのは、「遊び」の非日常世界を明らかに逸脱している。詰まり、日常世界における<第一人者>であることを目的とした時点で、それは「遊び」とは言えなくなってしまっているということである。

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