ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(34)〈徳〉(アレテー)

いかなるものでも、その種に固有な〈徳〉(アレテー)άρετή を持っている。馬にも犬にも、目口にも、斧や弓にも、みなそれぞれに固有の徳というものが存在する。力と健康は肉体の徳である。聡明と識見とは精神のそれである。語原的には〈徳〉という言葉は〈最善のもの(アリストス)、最も秀でたもの〉άριστος と関係がある。貴人(アリストス)の徳とは、彼に闘ったり、命令を下したりする能力を与える性質のことである。ほかにも、その性格からいって、貴人の徳に属するのは物惜しみしない寛仁大度(かんじんたいど)とか、知恵、公正とかがある。多くの民族において、美徳を表わす言葉が雄々しさ、男らしさという観念から発していることは全く自然なことだが、例えばラテン語の〈ウィルトゥース〉virtus は、事実非常に長いあいだ、キリスト教思想が優勢になるまで、勇気という意味を主なものとして保っていた。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、pp. 115f)

 〈徳〉(アレテー)に当たる英語は virtueであるが、これはラテン語のvirtusから派生したものである。

 同様のことは、アラビア語の〈ムルア〉muru'a についても言える。もともと男、男らしさという意味だが、この言葉もギリシア語の〈徳〉に非常によく似通っていて、力、剛気、富、自分の仕事をよく果たすこと、良風美俗、都雅、上品、度量、寛大、そして遺徳的無垢などの語義の複合したものまでを含蓄している。(同、p. 116

 アリストテレスは、〈徳〉(アレテー)について、次のように言っている。

《すべて「徳すなわち卓越性」(アレテー)とは、それを有するところのもののよき「状態」を結果しそのものの「機能」をよく展開せしめるところのものであるといわなくてはならない。例えば眼の「アレテー」(卓越性)は眼ならびに眼の機能をよきものたらしめるというごとく――。というのは、われわれは眼の卓越性によってよくものを見ることができるのであるから。同じように、馬の「アレテー」は馬をしてよき馬たらしめ、すなわちよく走り、騎乗者をよく運載し、よく敵に対して踏みとどまらしめる。もし、それゆえ、あらゆるものについて同様のことがいえるとするならば、人間の「アレテー」とは、ひとをしてよき人間たらしめるような、すなわち、ひとをしてその独白の「機能」をよく展開せしめるであろうような、そうした「状態」でなくてはならない》(アリストテレス「二コマコス倫理学」第2巻 第6章:『世界の大思想4』(河出書房新社)高田三郎訳、p. 45



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