ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(35)報酬としての名誉

 部族の武士的、貴族的な基礎の上に立って生活を形成してゆこうとする古代的発想の中からは、それがギリシアであれ、アラビアであれ、日本であれ、中世キリスト教国であれ、必ず騎士道、騎士精神という理想がその華を咲かせている。そして、この徳の男性的理想というものは、原始的な名誉の主張、つまり外に向かって己れを見せつけようとする名誉の承認、主張と常に分かちがたく結びつくのだ。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 116)

 アリストテレースでも、名誉はまだ美徳の賞と呼ばれている。(同)

《名誉とは卓越性ないしは徳に対する報償なのであって、それは善きひとびとに配されるものである》(アリストテレス「二コマコス倫理学」第4巻 第3章:『世界の大思想4』(河出書房新社)高田三郎訳、p. 87

彼の思想はもちろん古代文化の水準をはるかに超えて高いものであったが、彼は名誉を美徳の目的、もしくは基礎とはせず、美徳の自然の尺度と見做(みなみな)している。〈人々は、自分に固有の価値があり、美徳があると自ら信じたいために、名誉を追い求める。彼らは思慮深い人々から、彼らの実際の価値に基づいた敬意を払われたいと願って、名誉を求めるのだ〉と。(ホイジンガ、同)

《たしなみのある実践的な活動をしているひとびとになると、名誉がすなわち善であり幸福であると解しているらしい。政治的生活の目的は名誉にあるようなものだから。しかしながら、名誉もわれわれの求めている「善」に比してはより皮相的なものであると見られる。何故なら、名誉はこれを与えられるひとによりも、むしろこれを与えるひとにかかっていると考えられるに反して、われわれの想定するところによれば「善」とは何らか本人に固有な取り去ることのむずかしいものでなくてはならないからである。のみならず、彼らが名誉を追求するのは、自己が善き人間であることを信じたいからのようである。

彼らは、だから、名誉を、思慮あるひとびとから、自分を知っているひとびとにわかるような仕方で、自分の卓越性のゆえに与えられることを求めるのである。それゆえ、少なくとも彼らに従えば、卓越性がよりよきものであることは明らかである。ひとは、だから、あるいはむしろ政治的生活の目的は卓越性にあるのだと解しようとするかもしれない。卓越性も、しかし、究極的なものたることからはかなりの距離があると見られる。なぜなら卓越性を有しながら眠っていたり生涯を無為に暮らすことも可能であり、のみならず、かかるひとが非常な困窮や不幸に出会うことも可能であると考えられる。だがこのような生活をしている人間を幸福だとするひとは――あくまでも自己の立言に固執するのでないかぎりは――ないであろう》(アリストテレス、同、pp. 20f

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