ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(36)ノブレス・オブリージュ

 美徳、名誉、高貴、さらに栄光は、従って、はじめから競技の、つまり遊戯の圏(かこい)の中に立っているのである。高貴の生まれの若い武士の生涯は、徳をみがく不断の試練であり、またその高貴の身分の名誉をめぐっての絶えまない闘争なのである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、pp. 116f)

 言い換えれば、「ノブレス・オブリージュ」(高貴なるものは義務を負う)ということであろう。高貴なる家柄に生まれたが故に、日々徳を磨き続けねばならないし、名誉を傷付けるようなことをしてはならないということである。

ホメーロスの『イーリアス』の中にある〈常に最強の勇士となり、他の者らに擢(ぬき)んでよ〉という句は、この理想を余すところなく言い表わしている。この叙事詩の関心は、戦闘行為そのものにあるのではない。むしろそれは一人一人の英雄の〈武勲〉άproteíαというものにあるのだ。

 貴族生活が形成されてゆくことによって、国家の中での、国家のための生活ということを目ざす教育が発達した。しかし、そういう意味関連の中でも、〈徳〉(アレテー)はまだ純倫理的な響きを持つには至っていない。それは依然として、ポリス社会の中の仕事に対する市民の適応能力ということであった。競技による訓練という要素は、そうなっても、まだもとの意味を失いはしなかった。

 貴族というものは、徳の上に立つことによって初めて成り立つという理念は、そもそもの初めから、このことに関するすべての考えの中に含まれていたのである。ただ、この徳という概念は、文化が進歩の度をすすめてゆくのに応じて、だんだんと変化をとげ、別の内容のものになっていった。つまり、倫理的、宗教的な、より高いものへ昇華していったのである。

こういう徳を充たすためには、かつてはただ勇敢に振舞い、己の名誉を外に表わして主張しさえすればよかった貴族も、生き方を変えねばならない。彼らが自分の仕事に、そして自己自身にあくまでも誠実であろうとすれば、その騎士道の理想そのものの中に倫理的な気高い実質を取り入れるか〈ただし、これも現実には全く惨憺(さんたん)たる結果に終るのだが〉、あるいは、ただきらびやかに華やいだ虚飾とか宮廷風な儀礼にひたって、その高貴の位と汚(よご)れない名誉の外観の見せかけを養うことで足れりとするか、そのどちらかを取らなければならなかった。

そして、今ではただそういうことだけが、最初から彼らに固有のものとして具わっていた遊戯性を、しかも、かつては文化を創り出す機能をさえ充たしていた遊戯性を、辛うじて彼らのために残してやるものだった。(同、p. 117

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