ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(37)礼節競争

 貴人はその〈徳〉を、実際に力、器用、勇気の試練によって、また才知、知恵、技芸によって、あるいは財産、寛仁(かんじん)大度(たいど)などによって示してきた。しかし結局のところ、それは言葉による競争によってもできることである。つまり、競争相手よりも擢(ぬき)んでたいと思う徳を、予(あらかじ)めみずから自讃したり、後から詩人や先触れ役によって讃美させたりして競うのである。

この自分の徳を自讃するということが、競技の形式として、敵方を侮辱するということに移行していくのは、まことに自然なことだ。そしてそういう侮辱も、競技に固有の形式をとるようになる。これら自慢や悪口の競技が、まことに多くの、異なった文化の中で、いかに特殊な役割を占めていることであろう。これは注目に値する。男の子たちの間にもそういうものが認められる。だから、彼らの振舞いを想い起こしてみれば、こういう悪口合戦を遊戯形式の1つと性格づけるには十分であろう。

 ある意図をもって行なわれる自慢や悪口の競技は、武器によって闘う真剣勝負の口火を切ったり、闘いのあいだそれに伴って続けられたりする虚勢的な大言壮語と、必ずしもきっぱりと区別されるものではない。古代シナの文献に記録されているような野戦をみると、それは大言壮語、雅量、会釈、無礼などの絡(から)まりあった混合物である。それは武器の力による闘いというよりは、むしろ道徳的武器を用いてする競技であり、お互いの名誉の衝突なのである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 118

 シナでは名誉のための競争が、それ以外のあらゆる可能な形式のものと並んで、礼節における競い合い、という極めて特殊な形をとることがある。(同、p. 119

 日本人なら、しばしば礼節を競い合う場面に遭遇したことがあるだろうし、それが日本人としての「美徳」であることに異論はないだろう。

これは〈ひとに屈する、ゆずる〉というほどの意味の〈譲〉という言葉で示される。敵にその場を譲って明け渡したり、先行を許したりする高潔な態度によって、かえって敵を圧倒するのだ。この礼節における競争がシナのように定型化されたところは、おそらく他にはないのだが、しかし、それはもともと、地上至るところで見られるものだったのである。(同、pp. 119f

 が、昨今の言動からは、シナ人に<礼節>があるとはとても思われない。成程、遠い昔、著(あらわ)された四書五経と称される書物には、<礼節>が説かれてはいるけれども、易姓革命を繰り返してきたシナには、それが継承されてはいない。継承されているのは、むしろ『論語』を愛好する人がたくさん存在する日本である。

他人に対して礼節を示す理由は、自分自身の名誉感情に他ならないのだから、われわれはこれを、いわば自慢試合の倒錯したものと呼んでよいであろう。(同、p. 120

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