ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(39)「遊び」は根源的
しかし、問題の出発点は、いろいろな形の遊戯の中で現実の行為に置き換えられる遊戯する心というものなのだ。つまり規則によって定められ、〈日常生活〉から離れて、リズム、交代、規則正しい変換、対照的クライマックス、ハーモニーなど人間の天賦(てんぷ)の欲求を繰りひろげさせることのできる行為の中に表わされた遊戯態度、殆(ほと)んど子供っぽいくらいの遊びの心という観念でなければならないはずだ。
この遊戯心というものと組み合わされるのが名誉、威信、優越であり、美をめざす精神である。すべての神秘的、呪術的なもの、英雄的なもの、ミューズ的なもの、論理的なもの、彫塑(ちょうそ)的なものは、気高(けだか)い遊戯の中に形式と表現を探り求めている。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、pp. 131f)
文化は遊戯として始まるのでもなく、遊戯から始まるのでもない。遊戯の中に始まるのだ。(同、p. 132)
要するに、「遊び」は根源的ということだ。
文化の対立的、競技的基礎はあらゆる文化よりさらに古い遊戯の中に、そしていかなる文化よりさらに根源的な遊戯の中におかれているのである。しかし、われわれの話を初めに戻して、ローマの遊戯(ルーディ)にかえろう。ラテン語は祭儀的競技を、ただ単に遊戯と呼んでいたことは前に述べたが、このことこそ、可能な限り純粋な言い方で、この文化要素の特性を表現している、と言わなければならない。(同)
いかなる文化の場合にも、その生成発展の過程の中で、闘技的機能、闘技的構造は早くも古代期のうちに、その最も明晰な形をとってしまったし、また、その殆んどが最も美しい形をも見出してしまった。文化の素材がだんだん複雑になってゆき、いろどりゆたかになり、繁雑になってゆくにつれて、あるいは営利生活、社会生活の技術が、個人的にも集団的にも、細かな点までくまなく組織化されてゆく程度が進むにつれて、古い文化の根源的な地盤の上に、遊戯との接触をもう全く見失ってしまったような多くの理念、体系、観念、学説、規範、知識、風習の層が、しだいに厚く積ってゆく。こうして、文化はますます真面目なものになってゆき、遊戯に対してはただ二次的な役割をしか与えなくなる。闘技的時代は去っていった――いや、去っていったらしく見えるのだ。(同)
「遊び」は根源的であるが故に、消えてなくなるわけではない。ただ様々な皮膜に覆われて見えにくくなってしまっているだけである。だから、文化を掘り下げれば、必ず「遊び」に通ずるということだ。
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