ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(40)追求する本性?

われわれは、地球上あらゆる地域に、どれをとっても完全に一致する多くの闘技的な考え方や慣習の複合体が、古代の社会生活の分野を交配していたのを見た。明らかに、それらの競技のさまざまの形式は、いかなる民族も固有な形で持っている独特な信仰の観念とは無関係に成り立っている。この同種性(遊戯がいかなる民族の中でも、同じ観念、形式となって現われているということ)に対する一番尤(もっと)もらしい解釈は、こうであろう。われわれ人間は、常により高いものを追い求めている。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 133)

 ホイジンガの「遊び」についての考察は、目を見張るものであることは間違いない。が、<われわれ人間は、常により高いものを追い求めている>と一般化されると、本当にそうだろうかと私には少なからず疑問が湧く。果たして、人は常により高いものを追い求め「遊ぶ」のだろうか。成程、「遊び」が洗練され文化として昇華することもあるだろう。が、それは<常により高いものを追い求めている>からではなく、ただ単に遊ぶことの1つの結果に過ぎないのではないかと思うのである。

それが現世の名誉や優越であろうと、または地上的なものを超越した勝利であろうと、とにかくわれわれは、そういうものを追求するという本性を具(そな)えている。この本性そのものがその同種性の原因なのだ、と。そしてこの努力を実現するために、人間に先天的に与えられている機能、それが遊戯なのだ。(同)

 「遊び」を通して<名誉>や<勝利>が得られる人は極限られている。にもかかわらず、多くの人が「遊び」続けるのは、「遊び」そのものが楽しいからであろう。詰まり、人は、<優越>や<超越>といったものを求めて「遊ぶ」というよりも、「遊び」そのものを楽しんでいるのではないだろうか。人に<名誉>や<勝利>、<優越>や<超越>を追求する「本性」があると結論するのは牽強付会(けんきょうふかい)のように思われる。※牽強付会:道理に合わないことを、自分に都合のいいように無理にこじつけること。

 そこで、もし今までわれわれが目にとめてきた多くの文化現象の中で、ほんとうに遊戯という特性が根源的なものであるならば、遊戯のすべての形式――ポトラッチ、クラ、交唱歌、悪口合戦、自慢競争、血腥(ちなまぐさ)い真剣勝負などのあいだに、厳しい境界を引くべきではないことも、論理上当然なことになる。(同)

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