ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(41)法律と遊戯の類縁
一見したところ、法律、法令、裁判の世界は、遊戯のそれからはるかに遠く隔たって見える。現に、神聖なまでの厳粛さとか、個人や個人の属する社会の死活の利害関係とかが、法律、裁判といわれるものすべてを支配しているではないか。
それでは、法律、正義、法令などの概念を表わした言葉の語原的基礎はどういうところにあるのか。それは主として、物事を定立し、確立し、指定し、蒐集(しゅうしゅう)し、保持し、秩序づけ、またそれを受容し、選択し、分割し、平衡に保ち、結合し、習慣づけ、確定する、というような意味分野の上にある。こうしてみると、これらの概念はすべて、遊戯を言い表わす言葉が登場する語義的領域とは、かなり対蹠(たいせき)的である。しかし、われわれがずっと観察しつづけてきたことだが、ある行為の神聖さ、真面目さということも、決してその行為から遊戯性を閉め出すものではなかったはずである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 139)※対蹠:向かい合わせた足の裏(=蹠)のように、正反対の位置関係であること。
法律と遊戯のあいだには類縁がある(同)
社会の中で人々が活動するには、守らなければならない「法律」がある。「法律」には、「自然法」(law)と「制定法」(legislation)があり、ここで言う法律とは後者の方である。また、「遊び」においても、守らなければならない「決まり」があるということだ。
このことは、そもそも法の理念的基礎とは何かというふうな問題とは無関係に、われわれが法の実際的行使の状況に対し、換言すれば、訴訟に対して目をむけたとき、そこに競技の性格が高度に固有のものとして具わっていることに気づけば、すぐに明らかだろう。競争と法が形成されてゆく過程とが関連していることは、前に〈ポトラッチ〉の記述に際して触れておいた。ダヴィもかつて、ポトラッチを、純法制史的な側面から協定や義務の原始的制度の起源として取り扱っていた。
ギリシア人の間では、法廷での両派の抗争は一種の〈討論〉と見なされていた。それは神聖な形式をふみ、厳しい規則に従いながら、抗争する2派が審判者の裁きを呼び求める闘争であった。訴訟は競技であるというこの考えは、時代が発展してから後の所産であるとか、競技という概念を比喩的に仮託して用いているのだ、と看なすことはできない。まして、エーレンベルクはそう考えているらしいのだが、堕落などでは決してない。むしろその反対なので、この問題についてのすべての展開は、訴訟の闘技的本質から出ている、と言ってよい。そして今日に至るまで、この競技性というものは、訴訟の中に残って生き続けている。(同、pp. 139f)
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