ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(42)トポス
競技について語るものは、遊戯を語るものでもある。どういう種類の競技にせよ、競技には遊戯性など存在しない、と否定したところで、それに十分納得のゆくような理由などあり得ないことは、われわれはすでに見てきた。いかなる社会も、裁判に対して神聖さを求めないものはないが、それでいて今なお、法律生活のあらゆる種類の形式の中に、聖なるものという領域にまで高められた遊戯的なもの、競技的なものが、ちらちらとその本性を覗(のぞ)かせているのが見いだされる。
裁判が行なわれる場所は〈法廷〉である。すでに『イーリアス』の中には、アキレウスの楯の上に裁きの長たちが描かれていたことがうたわれている。そこで言われている〈聖域〉ιερός κύκλοςというもの、これがはや、言葉の最も完全な意味での法廷なのだ。法の裁きが告げられる場所は、すべて真の〈神苑〉temenosであり、日常の世界から遮(さえぎ)られ、特別に柵で囲われ、奉献された場なのだ。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 140)
本来、人が人を裁くことなど許されない。人を裁けるのは超越的存在たる「神」だけである。が、だからといって、罪を犯した人間をそのまま放置してよいわけはない。だから、人が人を裁けるように、「特別な空間」を設(しつら)えるのである。それが〈法廷〉である。
《〈象徴的なものとしての場所〉…これは端的にいって、濃密な意味と有意味的な方向性をもった場所のことである。そしてそれをよく示すのは、世俗的な空間と区別された意味での聖なる空間、神話的な空間である。そのような聖なる空間は、いくつかの核となる場所を含んで成立し、その核となる場所は山頂や森の中などから聖なる場所として選び出され、世俗的な空間から区別される。そして聖なる空間はそのまとまりをもった全体性からおのずと宇宙論的性格を帯び、宇宙の似姿のかたちをとることが多く、したがってかつては、都市や家屋がそのような自覚のもとにつくられたのであった。(ゲニウス・ロキ)つまり土地=場所の精霊というのは、濃密な意味をもった場所がかもし出す独特の雰囲気を、そこに棲む精霊として捉えなおしたものである》(中村雄二郎『述語集』(岩波新書)、pp. 143f)
〈法廷〉は、「聖なる領域」と「俗なる領域」の間に特別に設えられた「非日常世界」だと言えるだろう。
《(問題の具体的な考察と議論にかかわるものとしての場所)とはなにか。これは古代レトリックでいうところのトポス論のもつ問題性を、もっと広い見地から捉えなおそうとするところに出てきた、トポス=場所の側面である。すなわち、〈隠された場所が示されれば隠されたものが容易に見出されるように、十分な議論をしようとすれば、その場所あるいはトポスを知らなければならない。それゆえ、トポスを議論の隠された所として定義づけることができる〉(キケロ『トビカ』)》(同、p. 144)
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