ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(44)裁判は闘争
審判者の前での訴訟というものは、どんな時代にも、またいかなる事情のもとでも、ひたすら原告被告それぞれの側の、この裁判に勝ちたいという、激しい願望を中心にめぐって行なわれる。してみると、どんな場合にも、そこには闘技的契機は存在しない、と閉め出してしまうことはできないのである。ただそこには、さまざまの制約的な規則体系があって、常にこの闘争を支配しており、訴訟は形式的には、あくまでもよく秩序の整った対立的遊戯という領域でたたかわされるのである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 142)
「裁判」は、〈法廷〉という架空された場における「闘争」である。裁判の根拠となる法律には、「自然法」と「制定法」の2種類の法律がある。が、裁判が非日常的なものである以上、根拠となる法律も非日常的なもの、すなわち、自然法であるべきだ。人為的な制定法によって人を裁くことは、俗世において、人が人を裁くことになりはしないかという懸念が生じてしまうのである。詰まり、裁判に用いられる法律は自然法であるべきだということである。ないしは、これまでの裁判で積み重ねられてきた「判例法」を基礎とすべきではないかということである。詰まり、「コモン・ロー」こそが裁判の根拠となるべきだということである。
結局、古代文化においては、現実に法律が遊戯と結びついていたということは、3つの異なった観点から整理し、理解することができるであろう。つまり、訴訟はまず賭けごととして観察することができるが、次に競争として、最後に言葉による闘争として見ることができる。(同)
訴訟とは、正、不正をめぐって勝敗を争う抗争である。ところが、われわれ現代人は、いかに法律に対して関心が薄いものでも、それを抽象的な正義という理念と切り離して考えたりはしない。われわれには、訴訟とは第1に正邪についての論議であり、勝敗は第2の問題にすぎない。そこで、古代の法律を理解しなければならない時に、われわれがまず断念しなければならないのは、まさにこの正邪という倫理的価値についての、ある先入見である。
高度の発達段階にある文明社会のなかで行なわれている法から目を転じて、進歩の遅れている文化段階での訴訟を観察してみると、正邪という観念、すなわち倫理的・法律的思想というものが、いわば勝ち敗けという観念の下におかれている、つまり、純粋に闘技的なものの考え方のかげにそれが隠れていることがわかる。だんだんと原始的な法意識の奥深く遡(さかのぼ)ってゆけばゆくほど、勝利への期待という要素が強くなってゆき、また直接それと結びついて、遊戯要素が前面にいよいよ大きく姿を現わしてくる。(同、pp. 142f)
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