ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(45)裁判は遊戯か?

神託、神明裁判という概念、籤(くじ)占いによって事を決めるという観念、つまり遊戯による決定ということ――ちなみに、なぜそれらのものを遊戯と言うのかといえば、ある裁定が究極的な力を持ち、覆(くつが)えすことができないということは、その基礎になっているものを遊戯規則であると考えた場合に限って成り立つからである――と、裁判官による裁決という観念とが溶けあって、唯一不可分の複合体を形づくっているような1つの思考領域が、われわれの眼前に浮かび上ってくる。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 143)

 〈法廷〉という非日常的空間を「聖域」と「俗域」の境界線上に設置し、「神佑(しんゆう)」によって人を裁く、それが「裁判」というものである。ホイジンガは、「裁判」を1つの「遊戯」と見る。ここでホイジンガの「遊戯」の定義は次のようなものであった。

《遊戯とはあるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行なわれる自発的な行為、もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に従っている。その規則は一旦受け入れられた以上は絶対的拘束力を持っている。遊戯の目的は行為そのものの中にある。それは、緊張と歓(よろこ)びの感情を伴い、またこれは〈日常生活〉とは〈別のものだ〉という意識に裏づけられている》(同、p. 58

 この定義からすれば、「裁判」も立派な「遊戯」ということになる。

 一方、カイヨワは、「遊び」を次のように定義する。

(1) 自由な活動。すなわち、遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。

(2) 隔離された活動。すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。

(3) 未確定の活動。すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。

(4) 非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。

(5) 規則のある活動。すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。

(6) 虚構の活動。すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。

(カイヨワ『遊びと人間』(講談社文庫)多田道太郎・塚崎幹夫訳、pp. 39f)



 注目すべきは、(1)の「自由」である。「裁判」に果たして参加者の「自由」があるのかどうかということである。たとえ他の項目に当てはまるとしても、裁判に自由があるとは思われない。また、(6)の「虚構」も気に懸かる。「裁判」は、決して「虚構」ではない。が、物事の考え方として、聖俗の境界線上で、俗事を裁くものであるから、少なからず虚構性も持ち合わせてはいる。詰まり、虚実相半ばするものと考えられるということだ。以上のことから、「裁判」を「遊戯」と見做すことに私は疑義がある。

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