ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(46)籤占い

 われわれは神的な力の意思をいかにして知るのだろうか。今から、どんな運勢がめぐってくるだろうかとか、将来いかなる運命が展開されてゆくだろうかということを知ろうとすれば、われわれは神から何か託宣を引き出さなければならない。では、神託の決定はどのようにして与えられるのか。そのためには、われわれは果して勝つかどうかわからない見込みを験(ため)してみる、ということをする。小さな棒の籤(くじ)を引くとか、石を投げてみるとか、聖書のページの間に穴を穿(うが)ったりするなどがそれである。こうすると、それに対して神託が示されるのだ。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 143)

 俗人が神の助けを借りて未来を知ろうなどとすること自体が烏滸(おこ)がましいと言わざるを得ない。が、1つの「遊び」として、例えば神社にて御神籤(おみくじ)を引くといった形で自らの運勢を知ろうとすること、自らの良き未来を神様に期待することは、束の間の「現実逃避」を楽しむこととしてあり得ることなのだろうとは思われる。

「出エジプト記」(28:30)で、モーゼは〈汝審判(さばき)の胸牌(むねあて)にウリムとトンミムをいれアロンをしてそのエホバの前に入る時にこれをその心の上に置かしむべし〉と命を受けているが、この〈審判の胸牌〉――それが実際にはどんなものであったにもせよ――が、神の裁きということに関係がある。

この胸牌は「民数紀略」(27:22)でも、〈彼は祭司エレアザルの前に立つべしエレアザルはウリムもて彼のためにエホバの前に問ふことを為すべし〉と言われた時、祭司がその身に着けていたものである。同様に「サムエル前書」(14:42)には、〈サウルいひけるは我とわが子(ヨナタン)のあひだの籤を掣(ひ)けと即ちヨナタンこれにあたれり〉とある。

すでに神託、賭けごと、裁判の間の関連は、これらの例で、早くも可能な限り明らかな形をとって示されている。また、イスラム教以前の古代異教アラビアも、やはりこの種の籤占いを知っていた。

 ところで、『イーリアス』の中で、ゼウスが戦いの始まる前に、人々の死の運命をはかっている聖なる秤も、やはりそれらと同じ意味のものではあるまいか。(同、p. 143f)

かくてその時、父神ゼウスは黄金(こがね)づくりの秤皿を調(ととの)へ
そが中に、苦き死の命運を載せて、はかり給ひぬ
一方(ひとかた)には馬を駆るトロイエ人(びと)の、また一方は青胴の衣きたるアカイア人の。(同、p. 144)

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