ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(47)裁判は遊戯形式

 このゼウスがはかる(思案考量する)ということは、〈裁く〉δυκάζειν ということなのだ。神の意志、宿命、偶然の成行きなどの観念が、ここでは完全に1つに融(と)けあっている。正義の秤――この観念は、確かにホメーロスのイメージから出ている――とは、まだ確かなものになっていない勝利の見込みの秤なのだ。ここでは、まだ道徳的真理の勝利というようなことも、正は邪よりも重いというような思想も語られてはいない。

『イーリアス』第18書の中でうたわれているのだが、アキレウスの楯の上に描かれた絵の1つは、聖域の中に座を占めた審判者たちが行なっている法廷審理の場面を表わしている。聖域の中央には、最も正しい裁きを下したもののために〈黄金2タラント〉δύo χρυσo ῖo τάλαντα が置いてある。これは賭け金、あるいは賞金のように見えるかも知れないが、実はこれが、係争の種になっている金額なのであろう。要するに、これは法廷というよりも、籤引き遊戯の場といった方がふさわしい。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、pp. 144f

詩人は心の裡(うち)に、2人の係争者が、ほんものの秤、つまり神託を授かるための秤の両側にそれぞれ着席している法廷の場のイメージを思い描いていたのである。ところが、このイメージはその後まもなく理解されなくなってしまい、その結果〈タランタ〉は意味の転用によって金の単位と考えられるようになってしまったのだ、と。(同、p. 145

法律による裁判も、神明裁判も、籤占いや力の試練が最終的な決定を意味している闘技的な裁きを、実際に行なうという事実の中にその根を下しているのだ、と。勝ち敗けという闘いは、もうそれだけで神聖である。しかし、それもひとたび正、不正という定式化された概念が、そのなかに吹きこまれてしまえば、もうそれは法律の領域に押し上げられたのだし、反対に神の力という正の観念の光にあてて見れば、もうそれで信仰の領域へ引き上げられたことになる。しかし、いずれにしても、根源的なのは遊戯形式なのである。(同、p. 147

 人が人を「裁く」ことは本質的に許されない。人を裁くためには、「神」の力が必要となる。だから、〈法廷〉という人を裁くための特別な非日常空間を設(しつら)えるのである。成程、「裁判」は、ホイジンガの「遊び」の定義に当て嵌まる。が、それはホイジンガの定義上の話であって、「裁判」を「遊び」と考えるのはやはり早計であろうと思われる。

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