ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(48)戦争も遊戯か
われわれは前に、訴訟の遊戯形式を3つに分けた。〈賭け〉〈競技〉〈言葉の争い〉がそれである。この言葉による闘争という性格は、ことの本性からして、訴訟が文化の進歩発展によって、その遊戯性を全面的にせよ部分的にせよ、あるいは実際上にせよ外見上にせよ、失ってしまった時でも、なお訴訟に残された性格である。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 151)
古代では、決定を与えるものは、法律的に極めて慎重に考慮しながら行なわれる論議でなく、最も辛辣(しんらつ)に相手を罵(ののし)る毒舌だった。それならばそこでは、原告被告の両方がそれぞれ選(え)りぬきの悪罵(あくば)によって相手を打ちひしぎ、優位に立とうとする努力の中だけに闘技がある、ということになる。(同)
文化機能としての闘争ということになると、常にそれに制限を加える規則があることが前提であり、またある程度まで、そこに遊戯性が存在している事実を承認することが要求される。戦争についていえば、戦争に加わった一人一人が、互いに相手を平等の権利を有する存在として認め合い、また戦闘が規定の場の範囲内で行なわれる限り、それを1つの文化機能として語ることが可能なのだ。言い換えれば、戦争の文化機能は、戦争の遊戯としての性格にかかっているのである。
「闘争」の概念を広げて、「戦争」も「遊び」の1つと考えることの妥当性がどこまであるのかは疑問である。無論、戦争は、非常に「ゲーム」性に富む。否、「戦争は一種のゲーム」だと言っても過言ではない、否、なかった。戦争が、総力戦となって、日常世界を覆うようになるまでは。
ところが、心の中では敵を人間として認めなかったり、あるいは〈野蛮人〉〈悪魔〉〈異端者〉〈背教徒〉などと呼んで、当然認めなければならない最小限度の人間的権利すら敵に与えなかったりする場合がある。こういう場合には、戦争を惹きおこした集団が彼ら自身の名誉を保つために、自らに対してある種の制約を課するということをしない限りは、その戦争を文化の範囲に加えることはできない。
つい最近までは、社会は互いに相手社会を、〈人間〉の扱いをうける権利を持った〈人間社会〉として承認し、戦争状態に入る時には、それを明確な形――宣戦布告――によって、一方では平和状態から区別し、他方では犯罪的暴力から守るようにしていた。そのころは確かに、戦争を文化機能としての見地から見ることも可能だった。だがそれも、全面戦争の理論が現われるようになってはおしまいである。
こうして、遂に戦争における遊戯的なものの最後の名残りもふるい落とされ、それと同時に、そもそも文化、正義、人間性のすべてが放棄されてしまった、というのが現状なのだ。(同、p. 160)
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