ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(50)戦争は神の裁決
闘いの意志の奥に、純粋の飢えというものが原因として隠されている場合、これはごく稀にしか見当たらない現象だが、そういう時でさえも、攻撃側はその闘いを、神聖な義務、名誉、あるいは神の報復の問題と考えているものである。
物質的権力への欲望というものを見ると、たとえ高度の文明世界の中のそれでも、そして戦争を企てた政治家張本人が、それをただの権力争いの問題とみなしているような時でも、その本当の動機は、矜持(きょうじ)、虚栄心、声望の中におかれていたり、優越や支配という栄光に基づいていたりする場合が、絶対的多数を占めている。
古代からわれわれの時代に至るまでの大侵略戦争は、すべて経済的な力関係、政治的配慮といった合理的理論から解釈するよりも、誰でも直ちに理解することができる、名声を求める欲望という観念を考えることによって、いっそう本質的な説明を与えることができるであろう。このような戦争の栄光化の現代的爆発は、悲しむべきことに、もはやわれわれには、余りにも周知の事実となってしまった。
表面的には政治・経済問題が原因と見られる戦争であっても、深層には、<名声を求める欲望>ないしは「名誉を守る矜持」といったものが存在すると考えられるのだ。
ただこれも、結局そのもとを正せば、バビロニア、アッシリア時代の戦争観、すなわち、戦争とは異民族をことごとく根絶しようと欲する神が、聖なる栄光を求めて命じ給う神意である、という古代の戦争観まで遡(さかのぼ)ることができるのである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 161)
戦争のある種の古代的形式の中にこそ、戦争に自然につき纏(まと)うものである遊戯性が、最も直接的な形で表現されている、といえよう…古代文化の中では、裁判、運命、吉凶占い、賭博、挑戦、闘い、そして聖事としての神の裁きなどの観念が、たった1つの概念領域の中で並び合い、接し合っていた。それならば戦争にしても、その本質に従って、この概念領域の中に完全に含まれるものでなければならないはずである。
聖なる価値を持った神の裁決を得ようとして、勝つか敗けるかという試練を受けること、これが戦争なのである。裁判、賭博、籤占いも神々の意思を啓示することができたわけだが、それらのかわりとして、今度は武器の力が選ばれるのだ。そしてこの結果も、それらと同じように、神の裁き、運命を明らかにしてくれるであろう。(同、p. 162)
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