ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(51)宗教戦争

われわれが〈正義〉といっているものは、古代的な考え方の中では〈神々の意思〉、あるいは〈明証された優越性〉というのと同じことである。籤占い、武器による闘い、言葉による説得も、同じようにして神々の意思の〈証拠方法〉になるのだ。闘争というものも、予言や裁定者の前でする審理と変わりはなく、法律手続の1つの形式である。結局、すべて物事に決定を下すというそのことには、神聖な意味が賦与(ふよ)されるのだから、われわれは闘争をもそれなりに予言として捉えることができるわけである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、pp. 162f)

 <正義>とは<神々の意志>(the will of the gods)なのだとすれば、宗教の異なる国同士の戦いとは、正義の異なる国同士の戦いということになり、どちらの<正義>がより正しいのかを賭けることとなる。詰まり、神と神の戦い乃至(ないし)はその代理戦争ということになって、引くに引けぬ戦いが熾烈(しれつ)を極めるということに成らざるを得ない。まさに、西洋の宗教戦争がこれに当たる。

 訴訟から賭けの遊戯まで及ぶ、さまざまの解きほぐしがたい観念の複合体を、最も的確直截(ちょくさい)に把握することができるのは、古代文化の中の決闘という機能によってである。決闘にはさまざまの異なった傾向がある。それは、詩人や年代記作者の手で栄光化されて、世界史のあらゆる分野でよく知られるようになったのだが、まず全面的交戦への導入部とか、それに付随するものとかの形で、個人の〈武勲〉(アリステイアー)になることができる。(同、p. 163

戦争という概念が真の意味で生ずるのは、全面的な敵対関係という、特殊な、深刻な事態が起こって、これが個人的な諍(いさか)いと切り離されるようになった時であり、またある程度までは、それが家族相互の確執からも区別されるようになった時にである。そして、こういう区別がもうけられたことから、初めて戦争は祭儀的領域の中におかれるものになるばかりか、さらに闘技的領域にも位置を占めるものになってゆく。

こうして、戦争は高められて神聖な事柄となり、ひろく世間に行なわれる力比べとなり、運命の裁きとなる。手短かに言うと、今やそれは法律、運命、威信などを未分化状態のままに含んでいる複合体の領域に引き上げられるのだ。しかもそれと同時に、戦争は名誉の領域にも到達する。それは1つの神聖な制度となり、その部族が我ものとして身につけているあらゆる精神的、物質的粉飾をまとうのである。(同、pp. 168f

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