ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(52)戦争に見られる二面性

これは、その後戦争はいかなる関連からしても、厳しく名誉の法典の定めに従い、祭祀行為の形式をふんで行なわれるようになった、ということではない。野蛮な暴力は、依然としてその力を揮(ふる)おうとつけ狙っている。ただ、戦争が聖なる義務、名誉と結びつけられ、そういう考えの光に照らして見られるものになったということであり、またある程度まで、それらの形式のなかで実際に行なわれる――遊戯される――ものとなった、ということである。

現実に、戦争がどれくらいそういう思想に交配され、影響を蒙(こうむ)ってきたか、これをさだめるのは常に厄介な問題である。われわれが戦争について知ることのできる史料も、その大半は、同時代人や後世の人々によって、叙事詩、歌謡、年代記の中にうたわれ、記録されたような、戦争を文学的な目で眺めたもので、そこには多くの美化された描写や、浪漫的、英雄的フィクションが働いているのである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 169

 過去の戦争が具体的にどのようなものであったのかを知ろうにも、「一次資料」がなさ過ぎて、伝聞伝記の類(たぐい)だけでは、想像の域を出ることはない。したがって、その戦争がどれくらい<名誉の法典>に従い、祭祀行為の形態を踏むものであったのか、また、どれくらい<野蛮な暴力>を抑え込むことに成功していたのかは「藪の中」と言うしかない。

 しかしまた、これらの文献が戦争を祭儀的領域、道徳的世界へ引き入れたり、美的ファンタジーの世界へ高めたりすることによって、戦争を醇化(じゅんか)しているのは、すべてその残酷さを蔽い隠そうとする煌(きら)びやかな装い、被(かぶ)せものにすぎない、と信じてしまうのも間違いではあるまいか。たとえ、それが虚構でしかなかったにもせよ、戦争を名誉と美徳の遊戯とする考えの中から、騎士道の精神が芽生え、またそれと並んで、国際法の観念が育ってきたのである。純粋な人間性という概念は、この2つのものによって養われた。(同)

 戦争が極悪非道なものとならないように、個人においては<騎士道の精神>を生み、集団においては<国際法の観念>を育んだ。が、一方で、「勝てば官軍、負ければ賊軍」の戦争において、このような「綺麗事」は往々にして無視されてしまうのもまた仕方がないことである。

 戦争は、倫理的、道徳的に整備されてはきた。が、それは表層的なものであって、残念ながら、人間の本源的な部分における抑止とは成り得ない。

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