ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(53)勝利は規則逸脱をも正当化する
闘技的、祭儀的戦争を古代的なものといっても、それは、原始文化においてはすべての闘争が規則に則(のっと)って、競技の形式で整然と行なわれたというのでもなければ、現代戦の中には闘技的要素の余地は全くないということでもない。どんな時代にも、正しいとされる事柄を擁護して名誉のために闘う、こういう人間的理想は存在しつづけているものである。しかし、なまの現実の中では、この理想も初めから否定され、損われて(→損(そこ)なわれて)しまう。勝とうとする欲望の方が、名誉感情によって課される自制心より、いつでも大きいのだ。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 176)
「名誉」のために戦うのであれば、戦いの規則から逸脱することは不名誉なこととして避けるはずである。が、たとえ規則を守って戦ったとしても、負けてしまったのでは意味がない。「正義」は「勝者」に宿るのであるから。だから、何よりも勝つことが優先させるということになる。詰まり、規則遵守はただの努力目標に過ぎないということである。勝つことが正義である以上、たとえ規則を破っても、それは勝利することによって帳消しとなる。
かつて、あまたの民族や王侯たちは、力をもって敵に当たらなければならないと信じて暴力を揮(ふる)った。もちろんこれに対して、人間の文化は制約を加えようとして、大いにこれ努めてはいる。だが現実には、勝利を掴(つか)みとろうという願いが、闘っているものの心を、何としても非常に強く支配している。そのため、人間的悪がたちまち勝手気儘(きまま)に動きだし、およそ暴力を強化するために考えられることは、何憚(はばか)らずやってのけるという結果になるのだ。(同)
古代社会は、暴力をふるうことを許される許容範囲を――言い換えれば、戦争の遊戯規則というものを――同じ種族、同等の立場の相手だけに認めるという、ごく狭い圏に限っていた。あくまでも誠実さをもって名誉を守らねばならないのは、ただ同等の立場に立つものを敵として闘う時だけなのだ。闘う両軍は規則を承認せざるを得なかったであろう。そうしなければ、彼らは互いに戦いをまじえるわけにゆかないからである。同等の高さにある敵とまみえていた限りでは、確かに彼らも、運を賭けるという心構えや、ある節度を守るという要求その他と結びついている名誉感情の原理に、活力を吹きこんでいたのである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、pp. 176f)
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