ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(54)骨抜きの規則

戦闘が自分よりも低位にあるもの――それは野蛮人と呼んでも、またその他何と呼んでもいい――との間に交わされる時には、いかなる暴力の抑制もたちまちけし飛んでしまう。われわれは、バビロニアやアッシリアの王たちが神意にかなう業(わざ)として讃えたような残忍非道の行為によって、人類の歴史が汚されるのを見るという始末である。この深刻な道徳的無軌道ぶりと手と手を携えて進みつつあるのが、技術や政治の面における種々の可能性の呪うべき進展である。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 177)

 実際、太平洋戦争においても、米国は、日本人を人種差別よろしく「黄色いサル」(yellow monkey)と蔑(さげす)み、原爆投下をさも「動物実験」であるかのように正当化した。

戦時法規というものは、敵方さえも同等の資格を持った存在として承認し、またそこから、名誉ある、礼節にかなった処置を要求するものである。ところが最近の時勢の発展は、戦時法規が苦労してかちとった体制を、殆んどあらゆる点からみて、何の役にも立たぬものにしてしまった――しかも、これは武装平和の状態の中でもすでにそうなのだ。(同)

 1929年発効の「パリ不戦条約」において、「侵略戦争」は禁じられた。だから、大東亜戦争も侵略戦争との汚名を着せられたのである。が、実は、この条約締結の際、何をもって「侵略」と言うのかについての定義が各国揃わず、結局、「侵略」か否かは、当事国が決めるということになったのであった。

 たとえ「侵略戦争」を行ってはならないという高尚(こうしょう)な規則が確認されたとしても、「侵略」とは何かが定義されていなければ、「骨抜き」の規則であると言っても過言ではないだろう。

 原始的な、自己讃美に根ざしていた名誉と高貴という理想は、文明が進んで発展した段階の中では、正義の理想にとってかわられる。いやそう言うより、むしろ後者、この正義の理想そのものが、前者にまつわりついたといった方がよい。それを実行に移した結果は惨(みじ)めなものではある。それでも、はじめ多くの氏族、さまざまの部族が無秩序に並存していた状態から、人間社会が大民族、大国家の共同生活へと長い年月をへて拡大してゆくうちに、それはそういう人間社会の間で認められ、求められる規範になってゆく。国際法というものは、(これは名誉に反している、これは規則に背くことだ)という意識として、闘技的領域の中に生まれたのである。(同)

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