ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(55)原始文化水準以下への逆戻り
こうして、隈なく考えつくされ、倫理的に基礎づけられた国際法のもろもろの責務のシステムがいったん確立されれば、諸国家の関係の中には、もはや闘技的要素を容れる余地は、殆んど残されなくなる。そういう体制は、政治的闘争の本能を法という感情に昇華しようとするからである。
普遍的に認められた1つの国際法のもとで規制されている諸国家の集団には、理論的にいえば、すでにその内部に闘技的な戦争などあるべき理由はない。それにもかかわらず、そういう国家集団が、遊戯共同体の特質をすっかりなくしてしまったとは決していえない。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 177)
戦争自体を禁ずる国際法は未だ締結されてはいない。あるのは「侵略戦争」を禁ずる国際法だけである。しかも、「侵略」かどうかは、当事国が決めてよいとされている骨抜き条約である。戦争や紛争が世の中から無くなるなどということは想像も付かない。
相互の権利が同等であるという規定、外交的なさまざまの形式、条約を遵奉(じゅんぽう)し、戦争を公式的に通告すべき相互義務、これらは形式的には遊戯規則に似通っている。遊戯そのもの、すなわち、秩序ある人間の社会生活の必要ということが認められているうちは、まだそれらも拘束力を持っているのである。何といっても、この遊戯するということが、すべての文化そのものの基礎なのだ。ただそれらの場合には、遊戯という名を名乗る権利は、僅(わず)か形式的に保たれているにすぎないわけである。
ところで現実に目を向けると、国際法の体制も、もう全体としては、文化そのものの基礎として認めることはとうていできない、という局面に達している。諸国家の集団に属するある1つの国、または2つ以上の国々が、国際法の拘束性を事実上否定するやいなや、またそればかりか、国家的行動のただ1つの規範として、自分の属するグループ――それは国民でも、党派でもよく、階級、教会、そして国家そのものでもよいのだが――の利害関係と権力というものを、理論的に国際法の上におくようになるやいなや、遊戯心というものの最後の名残りも、あらゆる文化の中から消え去ってしまう。それだけに止まらない。結局はそれと同時に、一切の文明そのものが滅んでしまうのである。
社会は、こうして原始文化の水準以下に再びおちてゆく。こう考えてみると、ここで得られる重大な結論は、遊戯する心の擁護ということがなければ、そもそも文化などあり得るものではない、ということになるのは明らかなことである。(同、pp. 177f)
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