ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(56)日常世界における戦い
あらゆる法的拘束力が消え去って、完全に荒廃してしまった社会でも、闘技的衝動というものは失われない。それは、人間性そもそもの資質なのである。第一人者になりたいという先天的な欲望は、そうなっても、やはり対立し合う集団を互いに駆り立てて、血迷った誇大妄想の中で、かつて達せられたこともない惑わし、欺瞞(ぎまん)の頂(いただき)に彼らを導いてゆくことだろう。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 178)
人間には、本源的に<闘技的衝動>というものがあり、この「衝動」を御するために、法が定められてきた。が、社会が荒廃し、<法的拘束力>が消失すれば、抑え込まれていた「衝動」が剥(む)き出しになり、勝つことだけが至上命令になる。そうなると、勝利に至る過程の善悪正邪はどうでもよくなってしまう、詰まり、「無理が通れば道理引っ込む」ということになる。
人々が、歴史を動かしている力を経済関係の中に見るという古びた教義をたてまつろうと、また欲望に形式と名前を与えようとして全く新しい世界観を打ちたてようと、結局のところ根底にはいつも、ただ勝つことだ、勝ちさえすればよいのだ、という気持があることに変わりはない。(同、pp. 178f)
第一人者であることを証ししようとする競争の努力は、文化の黎明(れいめい)のころには、疑いもなく文化を形成し、高める要因の1つであった。素朴な子供らしい心や、身分地位の名誉に対する感情が、生き生きとしていた段階では、それは、まだ幼なかった文化にとって1つの必然でさえある、誇り高い人間的勇気を成熟させるものだった。それだけではない。闘技的な活動は常に奉献行事に涵(ひた)たされ、そこから、さまざまの文化形式そのものが育ってゆき、社会生活の構造もその中で複雑に組織されてゆく。貴族生活が、名誉と勇気の高潔な遊戯というものを目ざして、形成されてゆくのだ。
だが不幸なことに、古代社会でさえ、冷酷で苛烈な戦いの中では、この遊戯が現実の行為となるチャンスはまことに乏しかった。そのために、遊戯が美的、社会的なフィクションの中でだけ体験されるものになっていったのも、また止むをえない話である。血まみれの暴力を、高貴な文化形式の中に呪縛するというようなことは、ほんの部分的にしかできないことである。(同、p. 179)
勿論、<遊戯>(play)というものを只の「遊び」と解釈してはならない。日常世界における具体的衝突をも含む「非日常的活動」ということにでもなろうか。要は、戦いから非日常性が失われれば、ともすれば、極悪非道の所業へと陥らざるを得ないのである。
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