ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(57)騎士道
だからこそ、共同社会の精神は、高貴な競技の中や、名誉、徳、美の理想世界の中で操りひろげられる、英雄の生涯の華やかな幻想を思いえがくことに、いつも変わることなく逃避を求めるのだ。この高貴な闘いという理念が、何といっても、文化の衝動のうちで最も強力な1つであることは間違いない。それは中世騎士道や日本の武士道のように、ひとたび武士的修行、儀式的社交遊戯、現実生活の詩的修飾へと発展してしまうと、今度はそういう幻想のイメージそのものが、逆に彼らの文化的態度や個人的な心構え、行動力の上に働きかけ、彼らの勇気を鍛えて剛毅(ごうき)にし、義務感を促して、それを果させるものとなる。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、pp. 179f)
個人や社会を制御する方法は、大きく分けて2つある。1つは、客観的に制御するための「法律」、そしてもう1つが主観的に制御する「道徳」である。そして、<名誉、徳、美>が問題となるのは後者においてである。
改めて言うまでもないことだが、最高の意味での生の理想、生の形式としての気高い競技というこの体制が、特に自然に結びつきやすい社会構造がある。それは、程よい不動産を持った数多くの武士貴族たちが、聖君として崇(あが)める君主を存在の中心動機として集結し、その君主に忠誠を誓い、依存しながら仰ぎ従っている、という社会構造である。(同、p. 180)
が、<君主に忠誠を誓い、依存しながら仰ぎ従っている>という現実世界と、<生の理想>を追求し、<生の形式としての気高い競技>に参加する非日常世界を混同するのは良くないだろう。現実世界を離れた「遊び」だからこそ、理想や気高さが求められるのである。
自由人が勤労をする必要のない、この種の社会的秩序の中でのみ、騎士道が花咲き、それと共に、そこに欠くことのできない力比べや馬上槍試合が盛んに行なわれるのだ。(同)
が、例えば、貴族という<自由人>は、ただ遊んで暮らすだけの存在なのだろうか。少なくとも、貴族が存在することによって、社会は安易に変革できないという安定感がある。詰まり、貴族は「社会の重石」となっているということだ。これも立派な「仕事」だと言うべきなのではないか。
また、貴族のような特権階級が優雅であるがゆえに騎士道が花咲いたというのもホイジンガが偏見であろうと思われる。数々の無慈悲な戦いを経て洗練されたのが、騎士の「あるべき姿」、「行動規範」こそが<騎士道>というものなのである。
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