ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(59)教会を守護してきた騎士階級

もし騎士というものを社会階級でなく、1つの理想として捉えた場合においても違いは明白である。哲学的議論を好んだ歴史家たちの目には、騎士制度は封建制度と明確に区別され得るものとして映っていた。もし9世紀の西洋世界が封建化されていなかったとしても騎士階級は生まれていたであろう。そしていかなる場合でもキリスト教世界において脚光を浴びていたであろう。なぜなら騎士階級とは…武器を持たぬ真実〔教会の教え〕を護る守護者であり、キリスト教化された軍務の形なのであるから。そしてユピテル〔ゼウス〕の頭からミネルヴァ〔アテナ〕が生まれ落ちたがごとく、歴史のいずれかの段階において、教会の頭脳から騎士階級というものが生まれ落ちることは避けられなかったのである。(レオン・ゴーティエ『騎士道』(中央公論新社)武田秀太郎編訳、pp. 52f)

 詰まり、<騎士>を封建制の具体的制度の1つと考えることは出来ないという話である。

一方の封建制度は、その起源にキリスト教が全く関与していない。それは統治機構と社会制度の一形態に過ぎず、この統治形態が他の形態より教会にとって有益であったという事実は存在しない。封建制度は教会と繰り返し衝突し、そしてその度に幾度となく騎士階級が教会を守護してきた。封建主義こそ暴力であり、騎士階層とは救済であった。(同、p. 53

 騎士階級は、封建制と衝突する教会を守護する立場にあった。であれば、どうして騎士道が封建制から生まれようか。

 ゴドフロワ・ド・ブイヨンを見るがよい。彼が宗主に臣従を誓った事実、そして彼が幾人もの従臣に軍役を強(し)いた事実は、確かに騎士道とは何ら関係なく、純粋に封建制度に沿った行動であったかもしれない。

しかし彼がエルサレムの城壁の下で戦う姿を思い起こす時、彼が聖都〔エルサレム〕へと入城する場面を思い起こす時、その情熱的で恐れを知らず、力強く純粋で、勇敢かつ寛大で、謙虚かつ誇り高く、イエス様がイバラの冠を被(かぶ)られたその聖都で黄金の冠を被ることを拒否した〔王の称号を辞退した〕事実を思い起こす時、彼が誰から封土を授かり、誰を従臣として従えていたかなどということは、もはや霧散するのである。

私はこう叫ぼう、「彼こそ騎士なり」と! そして思い起こそうではないか。封建制度が崩壊した後も、いかに多くの偉大なる美徳を備えた騎士たちが生まれてきたかを!(同) 

※ゴドフロワ・ド・ブイヨン:1060-1100年頃、第1回十字軍の指導者「聖墳墓の守護者」の称号を持ちエルサレムを事実上支配

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