ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(62)戦争と平和
騎士的名誉、忠誠、勇気、自制心、義務意識という理想が、それらを養った文化にまことに大きな貢献をし、それを高めたこと、これは疑いない。たとえその大部分が幻想であり、虚構であったにもせよ、教育と公共生活の面で、それは確かに個人の能力を向上させ、倫理的水準を引き上げた。そういう文化形式の歴史像は、中世キリスト教や日本の文献を通じ、叙事詩的、ロマン的理想化の衣に浄化されて、まことに魅惑的に定式づけられた。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 181)
欧州の騎士道、日本の武士道が、それぞれの文化の伸長発展に大きく貢献したことは疑いを容れないということだ。
しかしまた、そのためにそういう歴史像は、最も優しい心情の持主までも動かして、戦争が現実にとった姿を美徳と知識の泉として、繰り返し讃えさせるという邪道にも導いたのである。(同、p. 181)
物事は「理想と現実」の平衡の上にある。が、実際に戦争が勃発すれば、この平衡が崩れ、現実によって理想が抑え込まれる。だから、戦争の一部分を切り取って<美徳と知識の泉>などと美化するのは、現実世界のただの欺瞞(ぎまん)であって、「理想」から生じたものでは決してない。
戦争というテーマは、これまで人間が果してきたさまざまの業績の源泉として、時にやや無思慮に取り扱われてきた。ジョン・ラスキンはかつて、戦争はすべての純粋、高貴な芸術の不可欠の前提である、とウールウィッチ士官学校生徒の前で演説したが、こう言う彼はいささか思い上っていたようだ。
〈これまで、偉大な芸術はすべて、戦士たちの国民の胎内にのみ宿ってきました。――偉大な芸術はただ、戦争の基盤の上に立って初めて可能なものであります〉。
さらに彼は、歴史の実例の扱い方に、ある素朴さ、浅薄さを暴露しながらも、こうつづけている、
〈手短かに申しますと、私はこういうことを見出したのであります。それは、すべての大民族がかち取ったその言葉の真理、思考の鋭さは、ただ戦争の中で学びとってきたものだ、ということであります。戦争から養分を汲み、平和によってそれを浪費しつくすのであります。戦争によって教えられ、平和によって欺(あざむ)かれるのであります。戦争によって訓練され、平和によって裏切られる――ひと言で申せば、彼らは戦争の中に生まれ、そして平和の中で息絶えるということであります〉。(同、pp. 181f)
<戦争>は「緊張」である。人は、生存を賭けて英知を結集し、死力を尽くす。一方、<平和>は「弛緩(しかん)」である。人は、平和を満喫することに夢中となり、努力することを忘れてしまいがちだ。戦争と平和を薄っぺらな善悪二元論で語るのは愚かと言うべきだ。
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