ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(63)戦争の二面性

 この言葉の中には、もちろんいくらかの真実はある。しかもその真実は、適切な言葉で述べられている。ところが、ラスキンはすぐに、彼の独特なレトリックを引っ込めてしまうのだ。これは、どんな戦争についてもそう言うことができるのではない、と。

彼が言おうと意図しているのは、初めからただ〈人類に自然に具(そなわ)っている活動性と闘争の歓びというものが、普遍的な共感によって訓練されて、美しい――おそらくは宿命的でもある――遊戯という形式に高められてゆく場としての戦争、すべてのものの根底にある創造的な戦争〉なのだ。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 182)

 戦争にも、「日常性」と「非日常性」との「二面性」があり、後者の非日常的空間において「理想」が追求され、それが「名誉」という形で遺(のこ)るのである。

彼は、人類がその初めから〈1つは生産者の、他の1つは遊戯者のという2つの種族〉に分けられていた、と見ている。後者は戦士の本質を持ち――〈その怠惰を誇りとしていて、従っていつも気晴しを必要としているのでありますが、そういう時、彼らは生産的、勤労的階級を、一部分は家畜として、また一部分は彼らの死の遊戯における操り人形とか碁石のごときものとして、利用するのであります〉。(同)

 このような言い方は誤解の素(もと)である。戦いにも、現実と理想が存在し、如何に敵を倒すのかということと、如何に美しく戦うのかという2つの側面がある。「非情」と「名誉」の葛藤の中で如何に戦うのかについて「懊悩(おうのう)」する戦士の姿が目に浮かぶに違いない。

 このラスキンの言葉には、深い予感と安っぽい思想的混迷が入り浸っている。だが、ここで大事なことは、ラスキンが古代文化の中には遊戯要素があったと、正確に認識していたことである。彼にしてみれば、創造的戦争の理想はスパルタと中世騎士道において現実になっていたのであった。しかし、いまわれわれが引用した言葉のすぐ後で、彼の真摯(しんし)な、優しい心が、その論理の飛翔しようとするのを裏切っている。アメリカ南北戦争の残虐さの印象のもとに行なわれた演説では、彼は現代の戦争――1865年の戦争のことである――の痛罵(つうば)に転身しているのである。(同)

 現実の戦争を、<遊び>の側面を強調して論じても仕方ない。現実の戦争は、そもそも「残虐」なものである。が、如何に暴虐非道な戦争であっても、そこには少なからず「名誉」に纏(まつ)わる隠れた世界が存在する。上辺の荒々しさだけに目を奪われてしまっていては、とても本質には辿り着くことは出来ない。

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