ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(65)<忠誠>も過剰となれば悪徳に堕す
《フランスの詩人リュトブフは、『ロランの歌』の良き時代の雄々しさに比べて今日の輩の情けなさ、とその作品で「忠誠心は死に絶えた」と憤慨している。さらに紀元前2世紀にはローマの喜劇作家テレンティウスも、忠実な登場人物を「古風な美徳の持ち主」と言っている。そこから、ラテン語の研究者には「忠誠心はあらゆる時代で取り上げられるが、過去にしか存在しないものである」とシニカルに考察する人も現れた》(エリック・フェルテン『忠誠心、このやっかいな美徳』(早川書房)白川貴子訳、p. 14)
《忠誠心はすでに廃れた徳になっているのであれば、なぜ我々は今でもそれを称賛するのだろう。それは、忠誠心は生きるに値する人生にとって欠かせない基本項目の1つだからだ。忠誠心のないところには、愛もない。忠誠心がなければ、家族が成り立たない。忠誠心なくしては友情もない。さらには、国家や地域社会に積極的に貢献する姿勢もなくなることになる。こうした事柄がないとすれば、社会そのものも存在し得ないだろう》(同、p. 15)
が、英作家グレアム・グリーンは、反対に「不実」であることを勧める。
《不実であれ。それが人類に対するおまえの使命だ。人類は残らなければならない。気苦労や銃弾や過労で真っ先に斃(たお)れるのは、忠実な人間と決まっておる。いいか、食い扶持を稼ぐために忠誠を求められたら、二重スパイになるのだ。どちらの側にも本名を明かしてはならん。同じことは、女や神にも言える。そっぽを向く相手は大事にして、支払い額を増やしていく。たしか、キリストもそんな話をしていたな。放蕩息子は忠実だったか? 消えた銀貨や迷える羊は? 従順な羊たちは羊飼いを喜ばせず、忠実な息子は父親に見向きもされなかった》(グレアム・グリーン「庭の下」:『見えない日本の紳士たち』(早川書房)木村正則訳、pp. 412f)
時が順風満帆であれば<忠誠>であればよいが、逆境においては、ただ<忠誠>であることは、事態を悪化することに手を貸すことにもなりかねない。求められるのは、忠誠と反逆の平衡ということなのではないか。
それどころか、忠誠と反逆の平衡は、たとえ順風満帆の時であっても必要なことであろう。順風満帆の時だからこそ、冷静に物事を見ることが出来る。問題があればそれに対応する余裕もある。だから、如何なる時であっても、一方に偏るべきではないということだ。詰まり、<忠誠>は「美徳」と考えられるにしても、それが過剰となれば、むしろ「悪徳」に堕すということは心得ておくべきことであろうと思われる。
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