ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(66)希薄化した騎士道の遊戯性

われわれが多くの民族に伝統として伝わる騎士道から知ったとおり、これをすべて文化の美的形式として語ってしまうと、この制度の祭儀的背景を見失う危険を冒すことになるのである。後の世に残された歴史、芸術、文学の中で、われわれがただ美しい、高貴な遊戯と想像しているものも、実際には、かつて神聖な遊戯だったのだ。騎士叙任式、馬上槍試合、騎士団、誓約は、疑いもなく遠い原始時代の成年式の慣習の中にその起源がある。

この長い発展を繋ぐ鎖の環の1つ1つは、もうわれわれにははっきり指摘できないものになっている。ただ、中世キリスト教世界の騎士道というものがあって、これが過去に繋がる、ある長く忘れられていた文化要素を、主として人為的な力で辛うじて維持し、また部分的には、それをよみがえらせもしたということは、われわれも知る通りである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 183)

 ホイジンガは、<騎士道>を<文化の美的形式として語ってしまうと、この制度の祭儀的背景を見失う危険を冒すことになる>と言う。が、それは、<騎士道>を<文化の美的形式として語っ>たことに起因するのではなく、「神が死んだ」(ニーチェ)ことにより、社会における祭儀の意味が喪失してしまったことに因(よ)るものではないのだろうか。

 すべての競技の初めには遊戯がある。すなわち、ある空間的、時間的限定の中で、特定の規則、形式に従いながら緊張の解決をもたらすもの、それも日常生活の流れの外にあるものを作り出そうとする協定がある。ここでは、完成されねばならない目標、つまりかち得られねばならない結果というものは、ただ二義的な意味で遊戯の課題の上に付け加えられる問題にすぎない。(同、pp. 186f

 当然、<騎士道>も「遊戯性」を有する。が、宗教に取って代わって科学的合理性の力が増大するにつれ、戦うことの現実が前面に押し出されるようになり、「遊び」が根源に存在することが見えにくくなってしまったのではないだろうか。

 いかなる文化の中でも、競技の慣習はみな同じであり、人々がそれに与えている意味も全く変わらないのだが、この驚くべき同種性というものが非常に特徴的なのである。この殆んど完壁なまでの形式の同一性、このこと自体が、遊戯としての闘技的心性というものは、いかに人間の精神生活、共同生活の底深くまで根をおろしたものであるかを、すでに証明しているのだ。(同、p. 187

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